魏志倭人伝は正しい⑪

 魏の使者たちは、倭人伝に記された邪馬台国までの行路に従って、足を踏み入れたのでしょうか? 記述内容からは、二回の使節団が倭国を訪れていますが、邪馬台国まで行ったとの結論は見い出せません。今回は、魏志倭人伝の内容から、「使者たちは邪馬台国へは行っていない」という私見です。「なぜ九州の上陸地点が末蘆国だったのか?」という疑問から、魏からの使者たちが決して特別扱いされていなかった状況を、倭人伝の行間から読み取りました。

正しい1110
行ってない

 魏からの使者たちが実際に邪馬台国を訪れたかどうかについて、魏志倭人伝の記載に基づいて検証してみました。

 その中で、もし女王・卑弥呼や女王・壹輿と会っているとの記載があれば、確実に女王の都・邪馬台国までは行ったと断定できます。ところが、接見した相手は假の倭王だったり、假の難升米だったりと、現代で言うところの「代理人」としか会っていないのです。これでは魏の使者たちが、実際にその地まで足を踏み入れたか否かは、定かではありません。

 ここで、「邪馬台国まで行ったかどうかは、分からない」としてしまっては評論家と同じで、無責任です。

 そこで、私の考えを述べておきます。私は、

 「魏の使者たちは、邪馬台国へは行ってはいない。」

と考えます。

正しい1120
魏の使者への扱いは雑

 この最も大きな理由は、九州の上陸地点が末蘆国である事です。一見、関係ないように思えるでしょうが、この上陸地点が女王国の国防上の重要な意味を持っている。そして、魏の使者といえども特別扱いはしなかった、という事を如実に表しているのです。

 要は、「外国人に女王国の真の姿を見せたくなかった」という事です。

 魏の使者たちが女王の都・邪馬台国を目的地として行ったのなら、九州の上陸地点を末蘆国にする必要は、何もありません。末蘆国へ上陸した場合には、背振山地という険しい山々を越えない事には、女王国の玄関口である伊都国へは辿り着けないのです。魏志倭人伝にも記されています。

正しい1130
卑弥呼は信用しない

「草木茂盛、行不見前人」

「草木が生い茂って、前を行く人が見えないほどだ。」

魏の使者たちが、背振山地の険しい獣道を歩かされていた様子が、この記述からも浮かび上がります。

 このように最初から入国管理局の伊都国や、九州最大の奴国へ入ればいいものを、なぜそれをしなかったのか? 普通に考えれば、最初の上陸地点を末蘆国という辺境の地にする理由など、無いはずです。

 例えば、末蘆国と同じ距離にある不弥国へ行ってもよかった。あるいはそんな面倒な事をせずに、九州なんかに上陸する事なく、対馬海流を利用して、投馬国や邪馬台国へ直接行ってもよかった。ところがそうはしなかった。いや、女王国がそうはさせなかった。

 九州島への上陸地点が末蘆国だったというその一点だけで、女王国の魏の使者たちに対する扱いが透けて見えてきます。

 女王国は魏へ朝貢して、臣下の礼をとっていましたが、完全に信用していたわけではありません。いつ何時裏切られて、魏の軍隊が攻めて来るかも知れない事など、当たり前のように憂慮していたはずです。

 島国である倭国・日本にとって海岸線の情報は最重要機密です。それを魏という強大な国家に知られてしまっては、完全に命取りです。弱肉強食の古代国家の関係ですので、当然と言えば当然でしょう。

 「外国からやって来る者は、必ず末蘆国に上陸させる」

それが女王国の掟だったのです。それを守らずに、ほかの港に上陸しようものならば、問答無用に殺害された事は想像するに難くありません。古代の掟はそれくらい厳しかったと思います。

正しい1140
厳しい掟

B: ちょっと、待って?

 

A: なっ、なに?

 

B: 想像に難くないって言うけど、殺害なんて酷い事、本当に日本人がそんな事やったのかなぁ?

 

A: これは古代の話ですので、現代とはかなり事情は違ったと思いますよぉ? 実際に、記録として残っている事件もあるんです。

 

B: えっ、本当に?

 

A: 時代は下りますが、奈良時代の渤海使の殺害事件というのがあります。渤海国は中国東北部の騎馬民族国家・高句麗の後継國です。高句麗が滅亡した後、日本との友好を図ろうとして、渤海国の方から日本へ使節団を派遣して来ました。ところが最初の使節団は日本人によって惨殺されてしまったのです。

 

B: げげげ?

 

A: 悲しい事件ですね。予定していた港に辿り着けなかったのが原因だったようです。

渤海の人達は騎馬民族ですので馬に乗るのは上手ですが、船を使って海を渡るのは下手くそですからねぇ。

渤海国から、リマン海流と対馬海流を利用して越前・敦賀を目指して航海したのですが、上手くいかずに遠く離れた秋田県の男鹿半島に上陸してしまったのです。男鹿半島の村人にとっては、怪し気な異国人が上陸して来たわけですので、問答無用で惨殺してしまったわけです。後になって渤海国の皇帝からの勅書を持参していた事が分かったので、その後は、遣渤海使という相互交流が始まるようになったんです。

 

B: 殺された人達、かわいそー。

 

A: 500年後の奈良時代でさえ、このような状況でしたので、女王・卑弥呼が厳しい沿岸警備を言い渡して、異国人が入国できないようにしていたかも知れないし、沿岸に住む村人たちの不文律で異国人を問答無用で殺害していたかも知れません。

 

B: そーかー。邪馬台国の掟は厳しい事が書いてありますものねぇ?

正しい1150
手杵祭り

A: なお、これに限らず、異国人が流れ着く事の多い日本海側では、様々な伝承が残っているみたいですよ?

 福井県小浜市には、「手杵(てぎね)祭り」という奇祭があるのですが、これも残酷です。その昔、村人たちが、漂流して来た異国人のお姫様の財宝を狙って、船を襲って殺害したという言い伝えがあり、その祟りを沈める為のお祭りだそうです。

 

B: 古代ってロマンチックだけど、本当は血生臭い歴史なのかも?

正しい1160
魏の使者は邪馬台国へ行けなかった

 話を元に戻します。

そういう訳で防衛上の理由から、外国人は必ず末蘆国から上陸しなければならないという女王国の掟があったのだと考えます。もしほかの港から入って来た場合は、問答無用に殺害する。となっていたのでしょう。

 中国・魏の使者といえども例外ではなくて、末蘆国に上陸させて、不便な獣道を歩かせたのではないでしょうか。

 そして、魏の使者たちが滞在してよいのは伊都国に限られて、ほかの場所には移動できなかったのだと思います。伊都国の中で倭人たちから邪馬台国への行路や倭国内の風俗習慣を聞き取ったのだと推測します。

 魏からの使者たちは、そんな環境の中で女王国の情報を収集して、その記録を元に魏志倭人伝は書かれたのでしょう。

 つまり魏からの使者たちは、女王国の防衛上に理由から、邪馬台国へは実際に行っていないと考えます。

 このような外交関係は現代にも当てはまります。国家間でいくら友好関係を築いて情報共有したとしても、最重要機密まですべてを開示しているわけではありません。隠すべき秘密は隠さなければ、いつ何時寝首を掻かれるやも知れないからです。魏志倭人伝から見えてくるのは、女王国の厳しい掟があり、魏の使者に対してもそれに従わせていたのです。決して彼らを輿に載せて「おもてなし」していた訳ではありません。あくまでも同盟国としての対等な関係が築かれていたのです。