誤記・誤植だらけ

 魏志倭人伝は、1800年前の書物です。普通に考えれば、誤記・誤植・誤解があって当然でしょう。

 使用言語が『客家語』で書かれた為、曲解があることを基礎知識2で述べました。ここでは、その他の理由を述べて行きます。

 三国志は、三世紀末に陳寿によって著された事になっています。しかし、今日伝わる魏志倭人伝は、その900年後、12世紀の南宋の時代に編纂された紹興本と紹熙本(しょうきほん)という本あり、これらが忠実に三国志を書き写されたとされています。これは、日本では丁度、鎌倉幕府が成立した時代です。

 印刷技術の発達と、紙質の向上があったので、その当時に多くの書物が出版されたようです。

 

 この、紹興本・紹熙本(しょうきほん)が出来るまでに、内容の変動は避けられなかったでしょう。

 陳寿が三国志を書いたのが290年頃。紹熙本までは900年経過しています。問題は、

・質の悪い紙か竹簡に、草書体で書かれいた

・一世代(二十年)に一回写本したとして、45回写本された

・言語が三回変わった

この中で、言語が変わっているのは気がかりです。

 

 中原の洛陽で著された三国志ですが、その後、北京に遷都し、さらに杭州に遷都して、そこで正式に印刷物となって現代に伝わっています。

 言語は、客家語、北京語、上海語と変わっています。

 ヨーロッパで例えるなら、ギリシャ語、イタリア語、英語と変わったようなものです。

いくら表意文字の「漢字」で書かれているとはいえ、全く違う言語を使う人間が写本するわけですから、多少の主観は入り込んでいると思います。

紹興本
魏志倭人伝は、十二世紀末の南宋の時代に編纂・印刷された。。
魏志倭人伝の履歴
900年間に紆余曲折があった。
魏志倭人伝の写本
原本から900年間に、三種類の言語の写本がされた。

 誤記・誤植・誤解が多少あったとしても、三国志(魏志倭人伝)の本質に大きな影響はないでしょう。

 本質とは、日本の弥生時代末期、文字も紙も無い後進国・倭において、超大国が存在していたという事実です。