説得力の無い説

邪馬台国を語る人の中には、延々と講釈を垂れる輩がたくさんいます。一つの例として、以下の文章を紹介します。誰も納得しないでしょう。

 

 ①「卑弥呼はシャーマンであった。」

 ②「卑弥呼体制は合議制である。」

この2つはおもしろい命題なので、追及したいと思います。(特に①は自明のようにも思えるし)

 

そこでまた「卑弥呼が共立された。」という一文に登場してもらいます。

そもそもなぜ共立という事態が起こったのか、これは一種の異常事態です。

そこでその時の状況を想定してみたいと思います。とりあえず考えられるのは下記2つの状況です。

 

状況1:

 各国は領土拡張政策で日本全体を支配下におこうとしたが、大国同士の戦争になってくるとなかなか決着がつかず、戦争に倦んできた。その時、たまたま邪馬台国という国に卑弥呼というシャーマンの国王が登場した。その神託統治は素晴らしく日本中の強大国の王たちは、その神性を信じ、卑弥呼の邪馬台国に全て日本の全権をまかせた。(つまり卑弥呼の独裁になった。)

 

状況2:

 戦争の状況は1と同じ。ただ、バラバラな日本を1つにまとめないといけない、せっぱつまった状況が 発生した。(外的要因?)その為に祭祀のうまい卑弥呼に一応、形だけ国王という立場に立ってもらって、スポークスマンという役割を果たしてもらう。ただし実質の政策決定は各国の王たちのグループによる合議政治という形態にするという事で、各国の王が納得してその体制が始まった。

 

 いかがでしょう。日本人のイメージだとほとんど状況1の方だと思います。

ところで状況1を検討するために、実際に当時の強大国の王(たとえば高志の国の王)の立場になったと想像してみてください。・・・(共立したのは彼らなので)

 あなた(高志の国の王)は賢明な王で、高志の国の国力をそだて領土拡張し、日本でも5本の指にはいる

強大国に育て上げました。戦争に倦んで、ある日、停戦した各国の首長と相談して卑弥呼に日本の全権を委ねることにしました。・・・ここまでが状況1であると思います。その後を想像してみます。

 卑弥呼はシャーマンなので、理性のある政治とは程遠く、サイコロを振って出たとこ勝負のような政治を

しています。ある日、「神託が下ったので、高志の国の税金として国力の50%を邪馬台国に収めよ」と言ってきたとします。

 あなたは、「ばかな事を言う邪馬台国など、軍隊で踏みつぶしてやる」と考えるでしょう。

ところが、以前はそれが出来たのに今はできなくなった事に気づきます。それは卑弥呼を日本国王にしてしまった為に、もし兵を向ければ日本に対しての反逆者になり、周りの強大国すべてを敵にまわして袋叩きにあう可能性があるからです。

 

状況1の検討、どうですか。

 つまり卑弥呼に全権をゆだねるという事は各国の首長にとって、ものすごいリスクを背負うという事に

他ならないという事なのです。一般人ならともかく、一国の王がこのような判断をくだすとは到底思えませんが、いかがでしょう。

 さて、そこで状況2の検討をしたいと思います。

状況1と状況2の違いは、状況1は卑弥呼の登場という内的要因によって卑弥呼の共立という事態が

発生したと考えるのに対して、状況2は外的要因によって、しかたなしに卑弥呼の共立という事態が起こったという考えです。

 

状況2については、卑弥呼の共立という異常事態を起こしてまで、あわてて日本をまとめないといけない理由、せっぱつまった状況とは一体何かを考える必要があります。そこで、倭人伝の卑弥呼の外交史を見てみると、西暦238年以降、魏の国にたびたび使節をつかわしているとの事です。

それで、ひょっとしたら魏の国と外交をしたかったから、卑弥呼女王の日本がまとまったというのが真相ではないかという考えがうかびます。

 なんかのんびりした考えのようで、こんな理由でほんとうに各国がまとまったのかとも思えてしまいますが魏の国が日本の命運を決めてしまう、超脅威だと当時の人たちが思ったなら、ありうる事です。

 初めての外交が238年なので、卑弥呼女王(日本の)が成立したのが230年頃と仮定します。これ以前で、魏の国でインパクトのある出来事というと、208年冬に曹操軍による赤壁の戦いが起こっています。

この時に曹操は100万の軍と号しています。(実際は数十万か)ただ、周りの国には実数よりも曹操の宣伝の100万の方が伝わっていくはずです。そうするとたった一割の10万の兵を日本に派遣されるだけで、日本各地で各国王が別々に戦うと、簡単に個撃破されてしまい最終的に全滅という憂き目にあってしまうのです。でも日本がまとまっていれば、九州に日本軍全軍を結集させれば、10万の敵軍はなんとか水際で防ぐことができます。そう考えると、卑弥呼擁立による日本国のまとまりは、

 ①日本各地の王による軍事同盟を作って魏の侵入に備えた。

 ②そうは言っても大会戦による国力・人命の損失を避けたいので、魏と外交しようとした。

この2つの目的を、各国の王たちが切実に感じたので、卑弥呼擁立による日本国の統一に賛成したのではないでしょうか。(統一国家でないと外交も、しにくいでしょうし)

 

 ここまで考えると、状況2では各国の王が自国に対する施政権を放棄するはずもないし、卑弥呼の独裁をゆるす理由もなにもないので、各国の王は邪馬台国で合議制をおこなったと考えるのが自然ではないでしょうか。

 

 尚、卑弥呼がシャーマンと思えるのは、倭人伝に「卑弥呼が鬼道をよくした。」と書いてある為、

その語感からです。でも上記状況2を見ると、魏とも外交しているし、もう少し冷静な人物にも思えます。

現在の天皇家では、新嘗祭や大嘗祭の祭事を行いますが、たとえば古代中国の使者がそれを見たとき、中国には日本神道がないので、それを鬼道と表現したのかもしれません。

 そうすると卑弥呼は、現在の天皇と同じく冷静に祭祀を行う神官に近いイメージだったように思います。(倭人伝の中に、卑弥呼が神がかりになる場面て、ありましたっけ?もしあればシャーマンで間違いないです。)

 

 邪馬台国が何処に在ったかは重要ではないんですよ、現在残されている杜撰な資料では判らない訳です。問題はあの時期に倭の西部に多くのクニが存在していた事ですかね、寧ろ古墳時代に前方後円糞が出来て後に韓半島南部の任那(弁韓)にも造られたか? そしてある時期に急に造られなくなったのか? 大きな問題だと思っています。倭が韓半島南部に任那日本府を置いたのなら、鉄以外には理由は考え難いですからね。中国側の資料では三国志魏書東夷伝倭人条から倭の五王迄の空白がありますし、日本国内では乙巳の変から壬申の乱で貴重な資料が焼失してしまった。そして記紀が創られましたが、これは勝者が創った歴史で全てを信用する訳にはいきません。然したった3冊の(国内向けに天皇家の支配の正統性を示す為の)古事記の後、たった8年で対外的に正史とされる漢文の日本書紀が作れたのかにはおおいに疑問です。この8年間の日本国内の動きにこそ興味がありますね、古事記が書かれた時には未だ日本国内に天皇家の支配を疑問視する勢力が残っていたのでしょう。古事記と日本書紀、面白いテーマですが歴史学者さん達は古事記を無視して日本書紀を重要視します。然し同時並行していなければ8年で大作を作る事は出来ず、大和言葉の古事記と漢文の日本書紀の違いだけでも面白いと思うんですが。