卑弥呼は、邪馬台国の女王ではありません

 邪馬台国チャンネルへようこそ。魏志倭人伝を読み進めて、46回目になります。

前回までで倭人伝の内容を一通りトレースしました。今回からは、一般にはあまり注目されない、けれどもとても重要な内容に焦点を当てて行きます。まずは、前半部分に記されている邪馬台国までの行路の中の、各国の役人についてです。その当時の倭国は、女王國という諸国連合の中に、邪馬台国をはじめとする国々が存在していました。そして、それぞれの官職が記されています。

 魏志倭人伝の内容は、大きく3つの章に分けられています。

まず、女王國について。

次に、倭人の風俗習慣について。

最後に女王國の政治状況について。

 となっています。

今回の主題である各国の官職は、最初の章の中に書かれています。

  この章の内容は、邪馬台国までの行路が主体に描かれています。

まず、朝鮮半島の帯方郡から始まり、狗邪韓国。対海国。一大國。末蘆国。伊都國。奴国。不彌國。投馬国。邪馬台国。という順序の行路です。また、その他にも旁國と呼ばれる20ヶ国の国の名称もありました。

これらの国々が連合して女王國が成り立っており、その都が邪馬台国です。

 倭国の中で、対海国、一大國、末蘆国、伊都國、奴国、不彌國、投馬国、および邪馬台国には、官職についていた人物名も記されています。具体的には、

対海国は、官曰卑狗、副曰卑奴母離

一大國は、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離

伊都國は、官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚

奴国は、官曰馬觚、副曰卑奴母離

不彌國は、官曰多模、副曰卑奴母離

投馬国は、官曰彌彌、副曰彌彌那利

邪馬台国は、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳

 となっています。

 邪馬台国は、女王の都する所、すなわち女王國の都ですので、官職が四人もいます。また、伊都國は出入国管理局のようなとても重要な場所でしたので、官職は三人です。そのほかは、それぞれ二人ずつとなっています。

 これらの官職は、現代で例えるならば各都道府県のトップ、すなわち地方行政を司る知事および副知事のようなものです。

邪馬台国の場合には、伊支馬という人物が都知事、彌馬升、彌馬獲支、奴佳の3人が副知事だったという事になります。

 これらの地方行政機関を束ねた連合国家が女王國であり、そのトップが卑弥呼だったという事です。現代で例えるならば、卑弥呼は日本国の総理大臣に当たります。

 邪馬台国を語る際に、よく「邪馬台国の卑弥呼」という表現が使われますが、これは正しくありません。

現代に当てはめた場合、「東京都の総理大臣」と言っているようなものです。正しくは「日本国の総理大臣」と言わなければなりませんよね?

 同じように卑弥呼について語る際にも、正確には「女王國の卑弥呼」、と呼ぶべきでしょう。

仮に邪馬台国のトップについて語りたい場合には、卑弥呼ではなく「邪馬台国の伊支馬」に焦点を当てるべきです。

ただし伊支馬については全く記述が無いので、語られる事はまずありませんね?

 先に述べました各国の官職の中で、二人、幾つもの国々を兼務している人物がいるのにお気づきでしょうか?

まず卑狗という人物は、対海国と一大國の両方のトップです。対馬と壱岐という海に浮かんでいる二つの島ですので、これら両方のトップを兼務していたのは特に不思議ではないでしょう。

もう一人は卑奴母離です。四ヵ国を兼務しています。

対海国と一大國の副官を兼務している上に、奴国と不彌國の副官も兼務しているのです。

なぜこんなに離れた四か国を兼務していたの? という疑問が湧いてきますよね?

 しかしながらこれも、地理的な条件を見れば納得が行く配置だと言えるでしょう。

これら四か国とも、海上交通の重要な拠点です。

 北部九州を拡大した地図で示します。

対海国・対馬、一大國・壱岐は島国ですので、海に関わっているのは当然ですし、奴国も博多湾を有する強力な港町です。

また、不彌國はその音韻の通り「海の国」です。現在の福岡県宗像市あたりがそれに該当します。ここは宗像三女神で有名な場所であり、古代海人族がいた地域ですよね? 船による長距離移動を行う為の重要な港町でした。また、ここから水行二十日で投馬国という航路も記されていますので、まさに海の国というのにふさわしい場所です。

 このように、対海国・一大國・奴国・不彌國の共通点は、「海」です。この海域を守るという重要な役職として、卑奴母離という一人の人物が統括していたのではないでしょうか?

 また、対馬や壱岐から宗像までは、若干遠いようなイメージがありますが、そうでもありません。

対馬と壱岐の間は約50キロ。そして壱岐と宗像の間も、同じく50キロ程度しかありません。

 魏志倭人伝に記されている距離の記述では、狗邪韓国から対海国が千里。対海国から一大國が千里。一大國から末蘆国も千里と記されています。

 これと同じ基準で距離を見てみると、一大國から末蘆国までと同じくらいの距離が、一大國から不彌國までの距離になります。

 対馬・壱岐・宗像は、決して遠い距離ではありませんね? 

このような周辺を海に囲まれているという地理的条件や位置関係から、卑奴母離という人物がこの海域の統括責任者として、対馬・壱岐・宗像に駐在する副官として活躍していたのでしょう。

 なお、不彌國は福岡県宇美町である、というトンデモ説があります。これは有り得ませんね?

宇美町は内陸部に位置していますので、その先の投馬国までの水行二十日という記述との齟齬が生じてしまいます。海がありませんから、船で移動する事ができなくなってしまうのです。仮にもし無理して水行するならば、宇美川や宝満川といった川底の浅い小さな川を船で移動する事になりますし、宇美川と宝満川の間は、陸地を歩かなければなりません。全くナンセンスです。

 さらに今回の不彌國の副官が、対馬や壱岐と同じ卑奴母離だという記述とも、全く関係性が見えてきません。

福岡県宇美町は名前こそ「ウミ」ですが、「海」とは全く関係ありませんよね?

 いかがでしたか?

邪馬台国までの行路では、各国の官職の名前が記されていますが、卑弥呼の名前が出て来るのは後半部分の女王國の政治状況の章からです。この事からも、卑弥呼は女王國という広域的な国家の王様であって、邪馬台国という局地的な行政地域のトップでは無かった事が分かります。但し、「邪馬台国と女王國とは同じである。」という酷い曲解が、未だにまかり通っています。残念ですね?

邪馬台国チャンネル

宇美川と宝満川は、水行はできません。

 不彌國は福岡県宇美町である、というトンデモ説ですが、結構人気があるようです。これは、邪馬台国は筑紫平野にあった、という大前提で考えた場合にはそうするしかないからです。筑紫平野説を正当化するには、途中の不彌國の場所を宇美町あたりにしておかないと、その先の結論に導けなくなってしまうという、切実な事情があるのです。

 不彌國を宇美町にしておけば、あとは簡単です。都合の良いように恣意的に解釈して、筑紫平野のどこかに邪馬台国があったと曲解できるのです。

 しかしそもそも、宇美川や宝満川の上流域は小さな川ですし、川底は浅いので、船で移動するのは不可能です。

川沿いを歩くにしても、沢登りや沢下りをしなければならない場所があります。川と川の間は当然陸行になりますし、当時は獣道しか無かった場所です。そんな場所を歩かなければならない事になります。「投馬国まで水行20日」という記述とは完全に乖離してしまうのですが、そこは九州説お得意の恣意的解釈です。

 「水行」と書かれているけれども、実は陸行だった。とか、小さな川でも修羅引きで移動したのだ。とか、各地でおもてなしを受けて20日も掛かってしまった。とか、開いた口が塞がらなくなってしまう論法です。

 もちろんこのような曲解は、一部の九州説支持者の主張であって、ほとんどの方はまともな思考力のある方々です。ただし、私が九州説を止めた理由の一つは、このように曲解が酷すぎる、という事でした。