邪馬台国チャンネルへようこそ。魏志倭人伝を読み進めて、43回目になります。
邪馬台国比定地論争では、「卑弥呼の墓」はどこにある? という視点で語られる事も多々あります。邪馬台国は女王の都ですので、当然ながら卑弥呼はそこに住み、そこで亡くなったという推定がなされるのは自然ですね?
今回は、卑弥呼が亡くなった様子や、作られたお墓の形やサイズ、主な卑弥呼の墓の所在地について述べて行きます。
まず、これまで読み進めてきた魏志倭人伝の概要を示します。
大きく3つの章に分けられており、
最初は、諸国連合国家である女王國について。
次に、倭人の風俗習慣について。
最後に女王國の政治状況について。
となっています。周辺諸国の話は、この章からです。
これまでに読み進めた内容を要約します。
邪馬台国までの行路では、このような道程が示されていました。その間にある20ヶ国の旁國を含めた30あまりの国々が連合して「女王國」が成り立っており、その中の一つ、女王の都が邪馬台国です。
行路の記述では、九州島の最初の上陸地点である末蘆国から、最終目的地の邪馬台国まではずっと、90度の誤りがあります。これは女王國が、海岸線の情報を魏の使者たちに知られまいとし、その作戦が功を奏したからです。
女王國に敵対していた狗奴国については、南に位置すると書かれていますので、90度ずれた東に位置する近畿地方を指しているようです。
また、帯方郡から女王國までの距離が12000里という記述も正確でした。
風俗習慣の記述では、魏の使者が見聞した様々な事柄が記されています。
北部九州の伊都国(現在の福岡県糸島市)に留め置かれていましたので、ほとんどが九州の風俗習慣です。倭人の身なり、絹織物の生産、鉄の鏃を使っている、などという描写です。
また、日本列島の気候風土とは全く合致しない記述もありました。それは、倭国はとても温暖で冬でも夏でも生野菜を食べている、みんな裸足だ、という記述で、それらは中国南部の海南島と同じだとされています。
方角を90度騙された魏の使者の報告書から、どうやら著者の陳寿が「倭国は南の島である」、という勝手な思い込みをしていたようですね? 海南島のイメージで倭人伝を書いてしまったようです。植物に関する記述でも、広葉樹のみが記されている事からも分かります。
さらに人々の生活については、父母兄弟は別な場所で寝起きする、赤色顔料を体に塗っている、食事は器から出掴みで食べている、人が亡くなった際のお墓の形式・お葬式の風習、食べ物には薬味を使っていない、猿やキジがいるのに食料にしていない、占いは骨卜、お酒を飲む習慣、一夫多妻制、規律正しい社会である事、などかなり詳細な部分にまで及んでいました。
倭国の政治状況の章に入ると、一大率という検察官を置いて諸国に睨みを利かせていた伊都國。卑弥呼に関する記述。 そして、女王國の周辺諸国の話となり、コロボックルが住んでいた侏儒国、船で一年も掛かかる裸国や黒歯国の話へと続きました。
さらに、倭国の一回目朝貢に対しての魏の皇帝からの詔、豪華な下賜品の数々、魏の使者が倭国へ詣でた様子、倭国の二回目の朝貢の記録へと進みました。そして前回は、ライバル狗奴国との関係の記述でした。
今回は、女王卑弥呼が亡くなった様子です。
卑彌呼 以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
「卑弥呼、死をもって、冢を大きく作る。径は百余歩。徇葬者は奴婢、百余人なり。」
この記述は、とても有名ですね?
卑弥呼の死に関する記述です。亡くなった年代は、魏の使者がやって来た翌年の247年、または翌年の248年と推定されます。丁度この時期に二回、日本列島で皆既日食が起こっており、それが原因で殺害されたのではないか?
という説があります。
247年の皆既日食では、日本列島のどこでも観測されませんでしたが、248年の皆既日食では、確かに邪馬台国の近くで観測されています。能登半島から北関東に掛けて起こっていたのです。能登や加賀といった現在の石川県は、古代には越前の国に含まれていましたので、まさに邪馬台国・越前で起こった皆既日食という事になります。
どうやら卑弥呼の死は、皆既日食と強い関係性がありそうですね?
卑弥呼の死に伴って、大きなお墓が作られました。
ここで「チョウ」という現代日本語では使わない漢字が出てきますが、これは「塚」という字と同じ意味です。元々「土を盛った場所」あるいは「お墓」を意味しています。
直径は百歩あまりとなっていますので、円墳である事は確実です。百歩という長さは100メートル前後、大体80メートルから120メートル程度でしょう。
また、卑弥呼の死によって、可哀そうにも百人もの人間を殺して一緒に埋めたようです。これは、古代社会では仕方ないですね? エジプトピラミッドもインカピラミッドも、徇葬者がいたようですので、権力者が死亡した際の世界共通の儀式だったのでしょう。
但し、この記述は魏の使者たちが実際に目にしたものではありません。倭人たちから聞き及んだ内容を、報告書に記したものです。なぜならば、彼らは伊都國(現在の福岡県糸島市)に留め置かれていたからです。倭国にやって来たとは言っても、北部九州からは一歩も外へ出ておらず、邪馬台国へは行っていないのです。卑弥呼に接見したわけでもなく、死に立ち会ったわけでも、墓を作る様子を見たわけでも、奴婢が百人殺される様子を見たわけでも、ありません。
なお徇葬についてはあまりにも残酷でしたので、古墳時代には行われる事は無くなったようです。人型埴輪のような人形を徇葬者の代わりとして埋葬するのが、後の時代に一般的になりました。
邪馬台国比定地論争では、卑弥呼の墓の所在地が重要になります。お墓のある場所こそが邪馬台国である、というのは自然な考え方ですよね?
魏志倭人伝に描かれた卑弥呼の墓の内容に一致する場所を探したり、あるいは無理やりこじつけたりするのが流行っています。
候補地としては、畿内説では箸墓古墳が有名ですね? しかしこれは、色々な意味で無理があります。まず形状ですが、円墳ではなく前方後円墳ですので全く違います。しかも大きさは250メートルを超える巨大なものです。さらに築造推定年代が四世紀ですので、卑弥呼の死よりも百年以上も後のものです。
年代推定については、三世紀の邪馬台国時代のものだと、改変されてしまったのも有名ですね?
どうしても邪馬台国が畿内にあったとしたい勢力が、恣意的に曲解しているのは残念です。
九州説では、福岡県糸島市の平原古墳や福岡県久留米市の祇園山古墳などが、候補地として有名です。
しかしこれらも、大きさが異常に小さかったり、円墳ではなく方墳だったりと、残念ながら魏志倭人伝の記述には全く一致していません。
なお私の説では、福井県福井市の丸山古墳が卑弥呼の墓である。としています。
これは直径100メートルの円墳ですので、大きさ・形とも魏志倭人伝の記述に一致しています。また、頂上部からは弥生時代の特殊器台や鉄剣なども発見されています。さらに、僅か1キロ離れた場所には、邪馬台国時代の鉄器出土数が日本で最も多い「林藤島遺跡」があります。
この丸山古墳はまだ正式な発掘調査が行われていないので、今後、地元が動いて下さる事を期待しています。
卑弥呼が亡くなった事によって、新しい王様が立ちました。
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
「さらに男王が立つ。国中服さず。さらに相誅殺し、当時、千余人を殺す。」
男の王様が立ったけれども、国中が不服で互いに殺しあい、千人あまりが殺された。とあります。卑弥呼があってこそ、まとまりのある国家だったようですね? カリスマ性のある権力者が亡くなった後というのは、古今東西、同じような流れになるものです。
この倭国の乱れは、抵抗勢力だった北部九州の筑紫平野あたりでの戦闘だったと推測します。なぜならば、内乱のようなものであり、日本海沿岸地域の女王國と近畿地方の狗奴国との戦いという国家同士の戦いではないからです。
なおここで、男の王様の名前が記されていません。やはりこれも、魏の使者が後になって聞き及んだ内容だという事ではないでしょうか? 女王國の卑弥呼や宗女壹與、狗奴国の卑弥弓呼素(ひみここそ)など、重要な王様の名前は必ず記されているのに、この部分だけは名前は無く、男王として処理していますよね?
卑弥呼が亡くなり、男王が立って再び戦乱となり、そしていよいよ、宗女・壹與が立つことになります。
いかがでしたか?
卑弥呼の墓については、日本全国各地に伝説・伝承があるようです。1980年頃に邪馬台国ブームがあり、いわゆる「トンデモ説」が日本全国で湧いて出てきた時代に、卑弥呼の墓の物語りも作られたようですね?
よく、伝説や伝承を根拠にして古代史を語る郷土史家の方がいらっしゃるのですが、正直、「勘弁してくれ」、という気持ちになります。伝説伝承というのは、江戸時代以降に創作されたものですので、古代史を語る上での根拠にはならないからです。
邪馬台国徳島説って、いいですね
邪馬台国徳島説というのをご存じでしょうか? 1980年代に飛び出した「トンデモ説」の一つなのですが、地元の皆様の盛り上がりはすごいようです。なんでも、商工会議所が音頭を取って、「ミス卑弥呼」だの何だのとイベントを行っているみたいですね? それに、やっぱりちゃっかりと「卑弥呼の墓」という場所も比定しているようです。
この説については、以前に大元になる本を読んで書評を動画にしています。いやー、あまりにも我田引水で、「トンデモ説」の極みと感じましたので、けちょんけちょんに貶してしまいました。まあ、私の説の基本である「農業生産力」という点で、全く有り得ないと感じたからです。徳島の皆様からはいっぱいお叱りを受けましたので、その動画は今は削除していますが。
ただ羨ましいのは、徳島の方ってノリがいいなぁ~、という事です。徳島に邪馬台国があったなんて、地元の人達もこれっぽっちも信じていないでしょうが、それをネタにしてイベントまで開催してしまう。
さすがは阿波踊りの里ですねぇ。 同じアホなら踊らにゃ損損。といったところでしょうか?