邪馬台国チャンネルへようこそ。魏志倭人伝を読み進めて、39回目になります。
魏の皇帝から倭国への下賜品には、二つの宛先があった事が明確に記されています。一つは、倭国という国家に対するプレゼント。もう一つは、卑弥呼個人へのプレゼントです。この二つの区分けは、あまり明確に語られる事はありませんよね? 卑弥呼個人へのプレゼントには、繊維製品と金属製品があります。今回この中で、金属類に関する内訳について考察します。
まず、魏志倭人伝の全体像を示します。大きく3つの章に分けられており、
最初は、諸国連合国家である女王國について。
次に、倭人の風俗習慣について。
最後に女王國の政治状況について。
となっています。周辺諸国の話は、この章からです。
これまでに読み進めた内容を要約します。
邪馬台国までの行路では、このような道程が示されていました。その間にある20ヶ国の旁國を含めた30あまりの国々が連合して「女王國」が成り立っており、その中の一つ、女王の都が邪馬台国です。
行路の記述では、九州島の最初の上陸地点である末蘆国から、最終目的地の邪馬台国まではずっと、90度の誤りがあります。これは女王國が、海岸線の情報を魏の使者たちに知られまいとし、その作戦が功を奏したからです。
女王國に敵対していた狗奴国については、南に位置すると書かれていますので、90度ずれた東に位置する近畿地方を指しているようです。
また、帯方郡から女王國までの距離が12000里という記述も正確でした。
風俗習慣の記述では、魏の使者が見聞した様々な事柄が記されています。
北部九州の伊都国(現在の福岡県糸島市)に留め置かれていましたので、ほとんどが九州の風俗習慣です。倭人の身なり、絹織物の生産、鉄の鏃を使っている、などという描写です。
また、日本列島の気候風土とは全く合致しない記述もありました。それは、倭国はとても温暖で冬でも夏でも生野菜を食べている、みんな裸足だ、という記述で、それらは中国南部の海南島と同じだとされています。
方角を90度騙された魏の使者の報告書から、どうやら著者の陳寿が「倭国は南の島である」、という勝手な思い込みをしていたようですね? 海南島のイメージで倭人伝を書いてしまったようです。植物に関する記述でも、広葉樹のみが記されている事からも分かります。
さらに人々の生活については、父母兄弟は別な場所で寝起きする、赤色顔料を体に塗っている、食事は器から出掴みで食べている、人が亡くなった際のお墓の形式・お葬式の風習、食べ物には薬味を使っていない、猿やキジがいるのに食料にしていない、占いは骨卜、お酒を飲む習慣、一夫多妻制、規律正しい社会である事、などかなり詳細な部分にまで及んでいました。
倭国の政治状況の章に入ると、一大率という検察官を置いて諸国に睨みを利かせていた伊都國。卑弥呼に関する記述。そして、女王國の周辺諸国の話となり、侏儒国というコロボックルが住んでいた地域、船で一年も掛かかる裸国や黒歯国の話。さらに、倭国からの朝貢、魏からの詔や下賜品の記述へと進みました。前回は下賜品の中の繊維製品について、詳しく考察しました。
今回は、魏の皇帝からの卑弥呼個人へのプレゼントについて考察します。その中の繊維製品については、割愛して読んで行きます。
又特賜汝 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤
「また特に汝に、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜ふ。」
とあります。
これら5点は、全て金属類です。
金八両は、その名の通りゴールドです。(Au)
金銅と呼ばれる青銅に金メッキを施したものの可能性もありますが、ここでは純金だと思われます。それは、八両という重さがとても微量だからです。
一両というと、江戸時代の小判一枚を思い浮かべてしまいますが、ここでは古代中国の重さの単位ですので異なります。
後漢の時代で、一斤は一六両、一斤は現在の単位では約248グラムだったとされています。
すると一両は15.5グラム。八両は、わずか120グラム程度だったという事になります。
古代中国で純金の生産が少なかった訳ではありません。紀元前の漢の時代には、北方の匈奴という遊牧民国家へ大量の金を送ったという歴史がありますので、三世紀の魏志倭人伝の時代にも潤沢な金を保有していたと考えられています。
卑弥呼へのプレゼントとしてずいぶんケチったな? と思ってしまいます。おそらく、卑弥呼へのアクセサリーくらいの意味合いだったのかもしれませんね? あるいはその当時の倭国日本は、あまり純金に興味が無かった可能性もあります。これについては、また別の機会に述べる事にします。
五尺刀二口は、鉄製の刀だったと考えられます。実用的な刀だからです。青銅の刀は柔らかいので飾り物に過ぎません。当時、戦争が多かった中国では、もはや青銅の刀は全く使われていませんでした。
尺という長さの単位は、古代中国では約25cmくらいだったとされています。すると五尺は、1メートル25cmくらいになります。かなり長い刀ですね?
ちなみに日本国内において、邪馬台国時代の遺跡から発見される鉄の刀は、一尺から二尺の「短刀」と呼ばれるものが多いという特徴があります。鉄器の発見の多い北部九州ではその傾向が顕著に見られます。
一方、長刀と呼ばれる尺の長い鉄刀は、日本海沿岸地域の越前や丹後で多く見られます。邪馬台国・越前の原目山墳墓群から見つかった複数本の長刀は、とても有名ですね? また、そこから1キロ離れた卑弥呼の墓・丸山古墳にも鉄の刀があったとされています。もしかすると、これらが魏の皇帝から送られた五尺の刀なのかもしれませんね?
銅鏡百枚は、魏の皇帝からのプレゼントでは最も有名ですね? 「銅鏡がたくさん見つかる場所こそが邪馬台国だ」という荒唐無稽な論調も多く見受けられます。
原料は、純粋な銅ではなく、錫との合金である青銅、いわゆるブロンズです。融点が低くて加工しやすいのですが、柔らかすぎて武器にはなりませんし、土木工事や農作業の工具にもなりません。ただの飾り物の金属です。
銅鏡は、緑青(ろくしょう)と呼ばれる錆びが付着したくたびれた鏡をイメージされるのではないでしょうか?
しかしこれは、長い年月、土の中に埋もれていたからであって、作ったばかりの頃はピカピカに光っていました。
まざに物を映す「鏡」としての役割りを果たしていました。
この銅鏡百枚は、倭国に対するものではなく、卑弥呼個人へのプレゼントとされています。現代も古代も、鏡は女性の必需品ですから、どうやら卑弥呼や取り巻きの女性たちに配慮してのものだった可能性が高いですね?
魏志倭人伝の卑弥呼に関する記述の中にも、
以婢千人自侍
「侍女千人がいて、自律的に仕えている。」
という記述があったように、卑弥呼の周りには1000人もの女性がいました。それを承知していたので、彼女たちの事まで考えて、鏡を100枚もプレゼントしたのではないでしょうか?
魏の皇帝、なかなかのやり手ですね?
最後は、真珠鉛丹各五十斤です。
真珠、および鉛丹は、赤色の顔料です。真珠と書いてあると、海で取れる真珠を思い浮かべてしまいますが、それには当たりません。すでに紹介した風俗習慣の中に、
「出眞珠・青玉 其山有丹」
「真珠、青玉をい出す。その山に丹あり。」
とありましたように、真珠は赤色顔料である「丹」、つまり硫化水銀を意味しています。
一方、鉛丹は現代日本でもその名が使われています。四酸化三鉛 (Pb3O4)の事です。
五十斤という重さは、先程の金の重量でも述べましたとおり、一斤が250グラムとすれば、 12.5キログラムとなります。硫化水銀と四酸化三鉛、それぞれ12.5キロがプレゼントされました。
これも卑弥呼個人へのプレゼントとされていますので、おそらく女性のみだしなみとして使われたのでしょう。
風俗習慣の記述でも、倭人は全身に朱丹を塗っている、とありましたので、当時の日本人は白い白粉ではなく、赤い白粉を塗るのが正しい化粧方法だったのでしょう。
いかがでしたか?
今回は、魏の皇帝からのプレゼントの中でも、金属類を紹介しました。この中でも「銅鏡百枚」は、常に邪馬台国比定地論争に持ち出されます。しかし、これに限らず、五尺もの長い刀や、真珠・鉛丹といった赤色顔料についても、面白い分布傾向が見られます。また二世紀頃にはすでに、邪馬台国において中国産の朱丹が使われていた事実も、科学的に証明されています。
次回は、そういった見地から魏志倭人伝を考察します。
真珠はパールではありません
今回の魏志倭人伝の中に出てきました「真珠」ですが、これを海で取れる真珠だと誤まって理解している人をよく見かけます。まあ、現代日本人の感覚からすれば、「真珠」と書かれていれば、宝石のパールだと思ってしまいますよね? 私も以前はそうでした。しかし本当に海で貝殻からとれるパールだとした場合、色々と矛盾が生じますので、ここで簡単に説明します。
最初に真珠が出てくるのは、風俗習慣の中で、
「出眞珠・青玉」
「真珠、青玉が出る。」という記述です。これだけ見れば、海で取れるパールと、山で取れる翡翠の事を言っているのではないのかな? という推測がなされます。しかし、この後すぐに、
「其山有丹」
「その山に丹あり。」と続きます。山の中には、「丹」と呼ばれる赤色顔料がある。と続いているのです。
ここで一転して、真珠は海で取れるパールではないのでは? という疑問が湧きます。さらに、珠という漢字は、「朱」と同じ赤色を意味を持っており、古代中国では朱丹と同じ物とされています。また、朱丹の原料となる鉱石を「辰砂」と呼びますが、これの元になっている言葉は、「真珠」であるという説もあります。
さらに今回の話題の中で、
「真珠鉛丹各五十斤」
という記述がありました。ここは、鉛丹という赤色顔料が記されていますので、真珠もまた赤色顔料と見るべきでしょう。仮に真珠がパールを意味していたとすれば、重量に大きな疑問が生じます。鉛丹が五十斤(12.5キログラム)なのは良いでしょう。ところが、海で取れる(パール)も12.5キログラム。これはないでしょう。
この時代、人工真珠はありませんので、天然真珠だけです。天然真珠は、1万個の貝から数粒しかみつからない程度の確率だと言われ、かなり希少な物です。それが12.5キロ分も見つけるとなると、天文学的な数の貝をほじくり出さなければなりません。しかも、魏の都・洛陽は、海の無い内陸部に位置しています。どうやって天然真珠を12.5キロも用意したというのでしょうか?
この文章は、真珠と鉛丹、すなわち硫化水銀と四酸化三鉛という赤色顔料が、それぞれ12.5キログラムだとするのが正しい翻訳です。