邪馬台国チャンネルへようこそ。魏志倭人伝を読み進めて、35回目になります。
前回は、女王國の周辺諸国の記述でした。小人の国・侏儒国や、船で一年も掛かる裸国・黒歯国など、ほとんどファンタジーの世界でした。それでも、北海道にいたコロボックルや、アメリカ大陸の原住民、太平洋の島々の海洋民族など、案外現実的な話なのかも知れませんね?
今回はさらに読み進めて、倭国が魏の国へ朝貢した内容へと入って行きます。
まず、魏志倭人伝の全体像を示します。大きく3つの章に分けられており、
最初は、諸国連合国家である女王國について。
次に、倭人の風俗習慣について。
最後に女王國の政治状況について。
となっています。魏の国への朝貢の話は、この章に書かれています。
これまでに読み進めた内容を要約します。
邪馬台国までの行路では、このような道程が示されていました。その間にある20ヶ国の旁國を含めた30あまりの国々が連合して「女王國」が成り立っており、その中の一つ、女王の都が邪馬台国です。
行路の記述では、九州島の最初の上陸地点である末蘆国から、最終目的地の邪馬台国まではずっと、90度の誤りがあります。これは女王國が、海岸線の情報を魏の使者たちに知られまいとし、その作戦が功を奏したからです。
女王國に敵対していた狗奴国については、南に位置すると書かれていますので、90度ずれた東に位置する近畿地方を指しているようです。
また、帯方郡から女王國までの距離が12000里という記述も正確でした。
風俗習慣の記述では、魏の使者が見聞した様々な事柄が記されています。
北部九州の伊都国(現在の福岡県糸島市)に留め置かれていましたので、ほとんどが九州の風俗習慣です。倭人の身なり、絹織物の生産、鉄の鏃を使っている、などという描写です。
また、日本列島の気候風土とは全く合致しない記述もありました。それは、倭国はとても温暖で冬でも夏でも生野菜を食べている、みんな裸足だ、という記述で、それらは中国南部の海南島と同じだとされています。
方角を90度騙された魏の使者の報告書から、どうやら著者の陳寿が「倭国は南の島である」、という勝手な思い込みをしていたようですね? 海南島のイメージで倭人伝を書いてしまったようです。植物に関する記述でも、広葉樹のみが記されている事からも分かります。
さらに人々の生活については、父母兄弟は別な場所で寝起きする、赤色顔料を体に塗っている、食事は器から出掴みで食べている、人が亡くなった際のお墓の形式・お葬式の風習、食べ物には薬味を使っていない、猿やキジがいるのに食料にしていない、占いは骨卜、お酒を飲む習慣、一夫多妻制、規律正しい社会である事、などかなり詳細な部分にまで及んでいました。
倭国の政治状況の章に入ると、まず一大率という検察官を置いて諸国に睨みを利かせていた伊都國に関する記述、そして遂に卑弥呼に関する話になり、女王になった経緯や人となりが記されていました。
さらに、女王國の周辺諸国の話となり、東には海を隔てて同じ倭人が住んでいるという新潟エリア、コロボックルのような小人が住んでいる関東・東北・北海道エリアの説明もされています。そして、裸国や黒歯国という船で一年も掛けなければ辿り着けない場所、といったぶっ飛んだ描写もなされていました。
この次には、魏の使者たちの倭国における行動範囲が記されています。
參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
「倭地を参問するに、絶へて海中の洲島の上に在り。或いは絶へ、或いは連なり、周旋およそ五千余里なり。」
とあります。
魏の使者たちは、伊都國(現在の福岡県糸島市)に留め置かれていましたので、倭国内部で訪問した地域はそこまでに限定されていた事が、この文章からも分かります。
翻訳すると、
「倭地を考えてみると、孤立した海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、周り巡って五千余里ほどである。」
となります。
中国からやって来た行路の記述で、倭国の最初の場所は朝鮮半島の狗邪韓国でした。
「到其北岸狗邪韓國」
その北岸、狗邪韓国に至る、との記述です。
そこから対馬へ1000里、対馬から壱岐へ1000里、壱岐から末蘆国へ1000里、末蘆国から伊都國まで500里、という明確な距離が記されています。さらに対馬と壱岐の合計の長さは1500里ほどです。すると合計はぴったり5000里となります。ここに記されている、およそ五千里という記述に合致しますね?
魏志倭人伝の距離の記載には、前後の相関関係を完全に一致させるように気を使っているようです。
前段に示されていた女王國までの距離もその一つです。
「自郡至女王國 萬二千餘里」
朝鮮半島のソウル市近郊の帯方郡から女王国に至るには、およそ12000里。となっており、個々の距離と、対馬や壱岐の長さを加えれば、玄関口である伊都國までの距離に、ほぼ一致していました。
今回の記述でも、狗邪韓国から伊都國までの距離が、前段での記述と矛盾が生じないように、一致させる気配りがなされているのが良く分かります。
「倭国は孤立した海中の島々の上にあって離れたり連なったり」、という描写も、対馬や壱岐の風景を連想させますので、かなり適格な表現と言えるでしょう。
次からは、女王國の使者たちが魏の都・洛陽へ朝貢した記録へと入って行きます。
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻
「景初二年六月、倭の女王は大夫、難升米等を遣はして郡に詣り、天子に詣りて朝見するを求む。」
まずは、朝鮮半島の魏の植民地である帯方郡まで行った内容です。
景初二年というのは、西暦238年です。卑弥呼が亡くなる十年前ですね。
この年に、難升米という名の上級役人を筆頭とする朝貢団が、帯方郡にやって来ました。そして、魏の皇帝にお目通りして献上品をささげたい、と求めました。
すると、
太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月 詔書報倭女王曰
「太守劉夏は、吏を遣わし将(ひき)い、送りて京都に詣る。その年の十二月、詔書は倭女王に報いて曰く。」
とあります。
帯方郡の最高官僚である劉夏という人物が、役人を派遣して、難升米たちを都・洛陽まで引率して送りとどけさせたました。そしてその年の十二月には、魏の皇帝からの詔書が倭の女王に対して下されました。
とんとん拍子に事が運んだようですね? 朝鮮半島の帯方郡でお目通りを願ったのが6月で、半年後の12月には洛陽にて魏の皇帝からお言葉を頂戴しただけでなく、絢爛豪華な下賜品までも用意されていたのです。
かなり友好的ですね?
魏志倭人伝が記されている「三国志 東夷伝」には、高句麗伝やユウロウ伝など、東アジアの国々についても記述があります。その中で、日本の事を記した「倭人伝」の記述量が最も多く、かなり友好的に書かれています。
どうやら、女王國・卑弥呼が朝貢する前からの長いお付き合いだったのではないのか? と思えます。
実際、魏の前身国である後漢の事を記した「後漢書」にも、倭国からの朝貢があり、印綬を下賜した旨の記載があります。博多湾の志賀島で発見された金印がこれに当たるとする説がありますよね? これは女王・卑弥呼が朝貢するよりも200年も前の話です。
そんな良好な関係だったからこそ、朝貢団と魏の皇帝との接見がトントン拍子に進んだのではないでしょうか?
当時の中国は現代のアメリカ合衆国のような存在で、世界で最も文明が進んでいた地域でした。そんな国へ、どこの馬の骨とも分からぬ小国がやって来たところで、門前払いを食わされるのがオチです。
当時の倭国日本は遅れた後進地域で小国だったにも関わらず、この魏志倭人伝の朝貢の記録からは、古代中国は、倭国日本を決してぞんざいに扱ってはいなかった事が良く分かります。
いかがでしたか?
魏の国が倭国を丁重にもてなしたのには、当時の中国の政治状況があったとする説があります。魏と敵対していた呉の国を牽制する為に、倭国とは友好関係を築かなければならなかったのだ、という説です。これはいささか疑問ですね?
魏と呉の敵対関係云々というのは、「三国志演義」の読みすぎです。ここには赤壁の戦いなどの戦争の記述が満載ですが、これは14世紀頃に書かれた歴史小説であって、歴史書ではありません。
歴史小説と歴史書は、しっかり区別したいものです。
次回以降に、倭国から魏の国への朝貢の具体的な内容に入ります。私はこの辺の記述はとても重要だと思っているのですが、一般的にはあまりよく知られていませんよね?
倭国からの朝貢品は、赤色顔料の朱丹だとか、絹織物だとか、生口という奴隷だったり、魏からの下賜品は、銅鏡100枚だとか、金の印鑑だったりとか、その程度しか知られていなのではないでしょうか? 実際は、もっともっといっぱい書かれています。特に魏から倭国への下賜品は絢爛豪華でした。おそらく倭国の使者たちは自分たちがあまりもお粗末で、中国とは文明の格差が大きすぎる事に、愕然としたのではないでしょうか?
私も日本人として、古代の日本があまりにも遅れた地域だった事を受け入れるのは、楽しいものではありません。他の古代史研究家も、同じ心境なのだと思います。都合の悪い事は触れたくないですものね? 私も触れたくないのですが、仕方ありません。
次回からは、魏志倭人伝をそのまま紹介して、倭国日本がどれほど遅れた地域だったかを示して行きます。