邪馬台国チャンネルへようこそ。魏志倭人伝を読み進めて、33回目になります。
邪馬台国への行路の記述と並んで、卑弥呼に関する記述はとても興味深いですね? 前回は、卑弥呼が女王になる以前の倭国は戦乱状態だった事を示しました。倭国大乱=熊襲征伐。これは日本書紀にも記されている筑紫平野での反乱を指しているものだと推測しました。今回は卑弥呼の人となりの記述へと入って行きます。王になってからは、見たものは少ない、という描写です。「自為王以來少有見者」
まず、魏志倭人伝の全体像を示します。大きく3つの章に分けられており、
最初は、諸国連合国家である女王國について。
次に、倭人の風俗習慣について。
最後に女王國の政治状況について。
となっています。卑弥呼に関する記述は、この章の中にあります。
これまでに読み進めた内容を要約します。
邪馬台国までの行路では、このような道程が示されていました。その間にある20ヶ国の旁國を含めた30あまりの国々が連合して「女王國」が成り立っており、その中の一つ、女王の都が邪馬台国です。
行路の記述では、九州島の最初の上陸地点である末蘆国から、最終目的地の邪馬台国まではずっと、90度の誤りがあります。これは女王國が、海岸線の情報を魏の使者たちに知られまいとし、その作戦が功を奏したからです。
女王國に敵対していた狗奴国については、南に位置すると書かれていますので、90度ずれた東に位置する近畿地方を指しているようです。
また、帯方郡から女王國までの距離が12000里という記述も正確でした。
風俗習慣の記述では、魏の使者が見聞した様々な事柄が記されています。
北部九州の伊都国(現在の福岡県糸島市)に留め置かれていましたので、ほとんどが九州の風俗習慣です。倭人の身なり、絹織物の生産、鉄の鏃を使っている、などという描写です。
また、日本列島の気候風土とは全く合致しない記述もありました。それは、倭国はとても温暖で冬でも夏でも生野菜を食べている、みんな裸足だ、という記述で、それらは中国南部の海南島と同じだとされています。
方角を90度騙された魏の使者の報告書から、どうやら著者の陳寿が「倭国は南の島である」、という勝手な思い込みをしていたようですね? 海南島のイメージで倭人伝を書いてしまったようです。植物に関する記述でも、広葉樹のみが記されている事からも分かります。
さらに人々の生活については、父母兄弟は別な場所で寝起きする、赤色顔料を体に塗っている、食事は器から出掴みで食べている、人が亡くなった際のお墓の形式・お葬式の風習、食べ物には薬味を使っていない、猿やキジがいるのに食料にしていない、占いは骨卜、お酒を飲む習慣、一夫多妻制、規律正しい社会である事、などかなり詳細な部分にまで及んでいました。
倭国の政治状況の章に入ると、まず一大率という検察官を置いて諸国に睨みを利かせていた伊都國に関する詳細な記述から始まりました。そして、下層階級の者が上の者に意見をする様子などがあり、卑弥呼の記述へと進みました。
倭国には男の王様がいて、長年に渡って戦闘状態が続いていました。そこへ卑弥呼が王様として立ち上がったとされています。鬼道をもって人々を惑わしたとありますので、カリスマ性のある人物だったようですね?
人物像は、とても年を取ったお婆ちゃんで、夫はいないけれども弟がいて政を助けている、となっています。古事記や日本書紀に記されている神功皇后と、ほとんど同じですね?
卑弥呼に関する記述は、もう少しあります。
自為王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
「王となりてより以来、見(けん)有る者少し。婢千人を以(もち)ひ、自ずから侍る。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。」
とあります。
女王になってから卑弥呼を見たものは、ほんの僅かしかいなかったようです。引きこもりですね?
侍女千人がいて、自主的に働いていました。ただ一人だけ男性がいて、飲食物を運んだり、伝達事項を伝えたりする為に、住まいに出入りしていました。
千人もの女性が働いていたというのは驚きです。
女性の人口が異常に多いですね?
以前に考察した風俗習慣の内容では、一夫多妻制だったという記述がありました。上層階級だけでなく下層階級の者も、複数の女性を娶っていたようです。そういう環境でしたので、女性の余剰人員が発生して、卑弥呼の元で働いていたのかも知れませんね?
そんな中で、一人の男性が卑弥呼の世話をしていました。これは、卑弥呼の政を助けていた弟でしょうか? それとも単なる伝達係でしょうか? この文章からは読み取れません。一つだけ言える事は、引きこもりだった卑弥呼の言葉は、この男性を介する以外には外部に伝わる事はありませんでしたので、とても重要な役割だった事は間違いないでしょう。
さらに次の記述があります。
宮室樓觀城柵嚴設 常有人 持兵守衛
宮室・楼観の城柵は厳く設け、常に人有りて、兵を持ち守衛す。
とあります。卑弥呼の住まいについてです。
宮殿や高く造った建物には城柵が厳重に作られおり、常に武器を持った人が守衛していました。それは当然でしょう。女王國という諸国連合国家のトップに立つ人物の住まいですので、セキュリティは完璧に行わなければなりません。
現代も古代も同じですね?
次からは突然、女王國の周辺地域の話に飛んでしまいます。
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
「女王国の東、海を渡ること千余里で、また国有り。みな倭種なり。」
とあります。
東の方角に海を渡ると、別の国があり、そこにも倭人が住んでいるとの事です。
日本列島に対する魏の使者たちの認識は、末蘆国に上陸して以来ずっと、90度ズレていましたので、ここでもそれを当てはめます。すると、東というのは、北となります。距離は千里。これは以前にも出てきた距離と同じです。朝鮮半島の狗邪韓国から対馬、対馬から壱岐、壱岐から末蘆国、これらも3つの距離も千里でした。
すると、女王國の東の端は能登半島ですので、そこから北方向に千里となります。確かに海が存在しており、「渡海する」という記述に合致します。また若干方角にずれはありますが、千里ほど離れた場所に陸地があります。佐渡島や新潟あたりになりますね?
おそらくここを指しているのでしょう。
新潟県は飛鳥時代以前には、邪馬台国があった高志の国の一部とされていました。その後、越前・越中・越後に分割されたました。現代では、高志の国の中では最も人口が多い地域です。日本有数の米どころとして認識されていますよね? ところが、江戸時代以前には、沼地だらけで田圃にする土地は限られていた為に、僻地のような場所でした。高志の国の中では、最も遅れた地域でした。縄文時代からの狩猟採取によって生業を立てていた人々が住んでいた程度です。その為、弥生時代という水田稲作によって人口爆発が起こった時代には、相対的に人口の少ない場所になっていたのです。
その証拠に、邪馬台国があった越前の国・福井県に比べて、越後の国・新潟県からは顕著な弥生遺跡はほとんど見つかっていません。
魏志倭人伝において、新潟エリアを別な国として記述したのは的を得ていますね? 女王國は、僻地だった越後・新潟を連合国家に含めてはいなかったし、その必要も無かったのです。魏の使者たちへの説明で。
女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種
「女王国の東、海を渡ること千余里で、また国有り。みな倭種なり。」
としたのは、ちゃんとした理由があった訳です。
いかがでしたか?
卑弥呼に関する記述の後に、突如として女王國以外の国の説明になってしまいましたね? この先を読み進めると、さらに摩訶不思議な倭国周辺の国々が登場します。おそらく著者の陳寿が、女王國の話から少しずつ広域的な話へとつなげて行く意図があったのでしょう。周辺諸国の話については、魏の使者に対して倭人たちが大風呂敷を広げて、夢のような倭国像を示したのではないか? と考えます。一つだけはっきり言える事は、魏の使者は伊都國(現在の福岡県糸島市)に逗留していて邪馬台国までは行っておらず、倭人たちから受けた地理の説明をそっくりそのまま信じた、という事です。
私の説は「邪馬台国新潟説」ではありません
動画に対するコメントを、たくさん頂いています。いつもありがとうございます。そんな中で、「邪馬台国新潟説は有り得ない。」というご意見をしょっちゅう頂きます。大体ふた月に一回くらいはあります。
私もそのご意見には大賛成です。新潟は弥生時代は沼地だらけでしたので、農業生産力はとても貧弱でしたし、弥生遺跡にしても目を見張るものはありません。「七萬餘戸」という魏志倭人伝の記述とは全く合致しません。
そこで、なぜ私の動画で、「邪馬台国新潟説は有り得ない」、なんていうご意見を書き込まれるのかを、考えてみました。恐らく書かれた方は、日本列島の地理の知識が乏しいからなのではないか、と思いました。越前と越後の区別が付かないのだと思います。
確かに新潟県も高志の国に含まれます。その為に、私の説が「新潟説」だと決めつけているのだと思います。
まあ、古代史を少しでもかじった事がある方ならばお分かりでしょうが、古代の高志の国の中心地は新潟県ではありません。その辺から理解していない方が多い、という事なのでしょう。
そもそも、越前の国・福井県福井市と、越後の国・新潟県新潟市とは、500キロ近くも離れています。これは東京と京都の距離と同じです。九州ならば、博多湾と鹿児島湾との距離よりも離れています。
例えば、私が九州説を否定する際に、
「邪馬台国は博多湾には無かった。なぜならば桜島があるから。」
なんて言ったらどうでしょう? キチガイ扱いされますよね?
それと同じです。
私の動画に対して、新潟説がどうのこうの言うのは、そんなレベルです。