卑弥呼はやはり神功皇后でした

 邪馬台国チャンネルへようこそ。魏志倭人伝を読み進めて、32回目になります。

邪馬台国への行路の記述と並んで、卑弥呼に関する記述はとても興味深いですね? 前回は、卑弥呼が女王になる以前の倭国は戦乱状態だった事を示しました。倭国大乱=熊襲征伐。これは日本書紀にも記されている筑紫平野での反乱を指しているものだと推測しました。今回は卑弥呼の人となりの記述へと入って行きます。

 まず、魏志倭人伝の全体像を示します。大きく3つの章に分けられており、

 最初は、諸国連合国家である女王國について。

次に、倭人の風俗習慣について。

最後に女王國の政治状況について。

 となっています。卑弥呼に関する記述は、この章の中にあります。

 これまでに読み進めた内容を要約します。

邪馬台国までの行路では、このような道程が示されていました。その間にある20ヶ国の旁國を含めた30あまりの国々が連合して「女王國」が成り立っており、その中の一つ、女王の都が邪馬台国です。

 行路の記述では、九州島の最初の上陸地点である末蘆国から、最終目的地の邪馬台国まではずっと、90度の誤りがあります。これは女王國が、海岸線の情報を魏の使者たちに知られまいとし、その作戦が功を奏したからです。

 女王國に敵対していた狗奴国については、南に位置すると書かれていますので、90度ずれた東に位置する近畿地方を指しているようです。

 また、帯方郡から女王國までの距離が12000里という記述も正確でした。

  風俗習慣の記述では、魏の使者が見聞した様々な事柄が記されています。

北部九州の伊都国(現在の福岡県糸島市)に留め置かれていましたので、ほとんどが九州の風俗習慣です。倭人の身なり、絹織物の生産、鉄の鏃を使っている、などという描写です。

また、日本列島の気候風土とは全く合致しない記述もありました。それは、倭国はとても温暖で冬でも夏でも生野菜を食べている、みんな裸足だ、という記述で、それらは中国南部の海南島と同じだとされています。

 方角を90度騙された魏の使者の報告書から、どうやら著者の陳寿が「倭国は南の島である」、という勝手な思い込みをしていたようですね? 海南島のイメージで倭人伝を書いてしまったようです。植物に関する記述でも、広葉樹のみが記されている事からも分かります。

 さらに人々の生活については、父母兄弟は別な場所で寝起きする、赤色顔料を体に塗っている、食事は器から出掴みで食べている、人が亡くなった際のお墓の形式・お葬式の風習、食べ物には薬味を使っていない、猿やキジがいるのに食料にしていない、占いは骨卜、お酒を飲む習慣、一夫多妻制、規律正しい社会である事、などかなり詳細な部分にまで及んでいました。

 倭国の政治状況では、伊都國に関する記述から始まりました。

伊都國は、千余戸という小国ながらも、女王國の政治の中心地でした。一大率という検察官を置き、諸国が恐れ憚っていたという記述。出入国管理局や税関のような外国との窓口の役割り、などの記述があります。

また魏の使者たちは、この伊都國に留め置かれており、女王の都である邪馬台国までは行っていない事が分かります。

 では卑弥呼の記述に入ります。

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年

「その国、本はまた男子を以って王と為す。住みて七、八十年、倭国乱れ、相攻伐して年を歴る。」

という記述を前回考察しました。これは、卑弥呼が女王になる以前の倭国では、男の王様がいて、長い間戦乱状態だった事を記しています。この戦乱は記紀にも記されている九州の抵抗勢力・熊襲との戦いであり、神功皇后が筑紫平野で鎮圧したものだと推測しました。

 今回は、その先の記述です。

  乃共立一女子為王 名日卑彌呼 事鬼道能惑衆 

  年已長大 無夫壻 有男弟佐治國

すなわち、一女子が王に立つ。名は卑弥呼という。鬼道に事(つか)へ、よく衆を惑わす。年、すでに長大にして、夫婿なし。男弟有りて国を治むるを佐く。」

 卑弥呼は、鬼道を使って民衆を惑わしていたという様子が書かれています。人々を統率する為の、何らかの不思議な力を持っていたようですね?

 古代という非科学的な社会では、日本に限らず世界中どこでも、神に仕えるシャーマン、あるいは預言者のような人物が組織のトップに立って、民衆を纏めていました。倭国日本においても、卑弥呼というシャーマン的な存在がトップに立って、纏まりのある社会が成立していたのでしょう。

 ここで、鬼道という言葉が出てきましたが、これは何だったのでしょうか?

三国志の中には倭人伝の他にも鬼道についての記述があります。それは、五斗米道として記されています。五斗米道とは中国古代宗教の一つで、入信する際に五斗の米を納めさせることからこの名で呼ばれていました。張陵を開祖とする道教の一派です。治療の術を使っていたとされおり、魏志張魯伝に病気を治したり、逆に病気をもたらしたりといったことが記述されています。

 この中国古代宗教の鬼道と、卑弥呼の鬼道が同じだったかどうかは、記述が無いので分かりません。

ただ単に中国の儒教的価値観に合わない政治体制を指すというものや、神道のことを指しているといったもの、などの説があります。

 まあ、卑弥呼は何らかの術や呪いというものを行っていたのは確かだろう、といった程度ですね?

 次に、卑弥呼のプライベートな記述に入ります。

年齢はとても高齢で、夫はいないけれども弟がいて、国を治めるのを助けている。

 となっています。お婆ちゃんで、独り身だったようですね?

この記述に関しては、恣意的に解釈してしまう古代史研究家が多く見られます。つまり、

「卑弥呼は、生涯独身で、子供はいなかった。」

といった曲解です。この文章には、生涯独身だとも、子供がいなかったとも書かれていませんよね?

 卑弥呼はすごく年を取ったお婆さんだった事は分かりますが、若い時代に結婚しており、夫と離婚したかも知れないし、死に別れたかも知れません。子供はいたけれども既に独立して、卑弥呼の元を離れて行ったのかも知れませんよね?

 生涯独身・子供はいない、などという根拠はどこにも見当たりません。

 女王国のトップとして、卑弥呼の政治を助けていたのは、弟だったとされています。この後の記述に、卑弥呼はほとんど人目に触れる事は無かった、とありますので、実務は弟に任せっきりだったのかも知れませんね?

 ここで思い起こされるのは、古事記や日本書紀に登場する古代史最強の女傑・神功皇后です。卑弥呼をモデルとしたとされる人物ですが、数多くの一致点が見られます。

 神功皇后の場合にも、政治的な補佐役がいました。武内宿祢です。熊襲征伐の際に夫である仲哀天皇を亡くしますが、その後もずっと付き従って三韓征伐を成功させた最大の功労者が、彼です。またその後、都である角鹿笥飯宮(現在の福井県敦賀市)に戻って摂政政治を始めますが、その際にも強力にサポートしたのが武内宿祢でした。

 もちろん武内宿祢は神功皇后の弟ではありませんが、70年以上に渡って密接な関係にありました。その為、余計な憶測が出るのを恐れて、「弟である」と公表していたのかも知れませんね? 

 俗説ですが、神功皇后と武内宿祢とは男女の関係にあり、息子である応神天皇は二人の間の子供である。という説があります。確かに夫である仲哀天皇が死亡した時期と応神天皇が生まれた時期に、かなりの時間差がありますので、可能性はありますよね?

 卑弥呼と神功皇后との一致点は、このほかにも、

・国家のトップだった

・神様の神託を受ける巫女さんのような存在だった

・子供である応神天皇は既に独立していた

などがあります。

 卑弥呼と神功皇后は同一人物ですね?

 いかがでしたか?

卑弥呼に関する記述は、せいぜい漢字百文字程度ですので、魏志倭人伝全体から見れば、ほんの僅かです。しかしやはり古代史最大のミステリーですね? 古代史研究家の間では、そんな僅かな記述から膨大で様々なファンタジーが描かれています。楽しいですね? なにより歴史書に残る日本で最初の王様が女性だったというのには惹きつけられます。もし卑弥呼が男性だったならば? 恐らく邪馬台国に対する興味は半減するのではないでしょうか?

邪馬台国チャンネル

卑弥呼は、太陽の巫女さんです

 卑弥呼という名称についてです。この漢字の最初に「卑しい」という文字が当てられているのは、あまり気持ちのいいものではありませんね? まあ、邪馬台国という名称も同じですが。

 これは倭国に限らず、中国が周辺諸国の名称を当て字する際には必ず下品な漢字を当てますので、あまり気にする必要はないでしょう。

 では倭国日本、つまり私たちのご先祖様が、なぜ女王を「ヒミコ」と呼んでいたのでしょうか?

「ヒミコ」、「日の巫女」、お日様を司る巫女さん、という意味が込められていた。という説が最も一般的ですが、私も同意します。

魏志倭人伝でも、「鬼道を事って民衆を惑わす」、とありますので、普通に考えれば巫女さんでしょう。それと、邪馬台国・越前で皆既日食が起こった西暦248年に、卑弥呼は死亡していますが、それとの関係性もありそうですね? 「日の巫女」でありながら、太陽が月に食べられてしまったと、当時の民衆は狼狽して、卑弥呼に殺意を持った事は充分に考えられます。

 それと、卑弥呼をモデルとしたのは神功皇后なのですが、天照大神もまた卑弥呼をモデルにした可能性は大きいですね?

なにせ、彼女は太陽の神様ですから。天岩戸隠れの神話も、皆既日食が元ネタですものね?

 いや~、卑弥呼を考えるだけで、色々と妄想が膨らんできます。