邪馬台国のお目付け役 伊都國・一大率

 邪馬台国チャンネルへようこそ。魏志倭人伝を読み進めて、29回目になります。

今回からは、倭国の政治情勢についての記述に入ります。魏の国からの使者たちにとって、ここが最も重要な情報だった事は容易に察しが付きます。それは、国と国との外交関係を健全に保つ為には、相手国のトップに立つ人物の人となりや政治体制、さらには抵抗勢力などの抱えている問題点を認識しておく必要があるからです。

 これは今も昔も変わりませんね?

今回は、伊都國・一大率の役割りを見て行きます。

 改めて魏志倭人伝の構成について述べておきます。内容は、大きく三つの章に分ける事ができます。

最初は、諸国連合国家である女王國に属する国々や、そこへ至る行路について。そして最終目的地が、女王の都である邪馬台国となっています。

次に、倭人の風俗習慣について。体中に刺青を入れているとか、倭国の産物など、倭国の様子が事細かに記されています。

最後に今回の動画からの話題となる政治情勢についてです。これは、政治の中心地や女王・卑弥呼について。魏の国への朝貢について。女王國と敵対している狗奴国について。卑弥呼の死やお墓、宗女・壹與についてなど、その後の政治状況についても記されています。

 では、これまでの動画で紹介しました内容を簡単に整理しておきます。

 まず邪馬台国までの行路では、この図のような明確な道程が示されていました。その間にある20ヶ国の旁國。これらをすべて含めた30あまりの国々が連合して「女王國」が成り立っており、その中の一つ、女王の都が邪馬台国です。

 行路の記述では、九州島に上陸してからはずっと、90度のずれがあります。これは、魏の使者たちが女王國に騙されたからです。倭国の海岸線の情報は最重要機密ですので、それを知られまいとした作戦が功を奏したようです。

 なお、女王國に敵対していた狗奴国については、南に位置するとだけしか書かれていませんので、90度ずれた東に位置する近畿地方を指しているようです。

 また、帯方郡から女王國までの距離が12000里という記述も正確でした。

  風俗習慣の記述では、魏の使者が見聞した様々な事象が記されています。

北部九州の伊都国(現在の福岡県糸島市)に逗留していましたので、ほとんどが九州の風俗習慣でした。倭人の身なり、絹織物の生産、鉄の鏃を使っている、などという描写です。

また、日本列島の気候風土とは全く合致しない記述もありました。それは、倭国はとても温暖で冬でも夏でも生野菜を食べている、みんな裸足だ、という描写で、それらは中国南部の海南島と同じだとされています。

 方角を90度騙された魏の使者の報告書から、どうやら著者の陳寿が「倭国は南の島である」、という勝手な思い込みをしていたようですね? 海南島のイメージで倭人伝を書いてしまったようです。

 自然環境の記述でも、広葉樹のみが存在していて南の島である事が強調されていましたので、その思考回路が明らかです。

さらに人々の生活については、父母兄弟は別な場所で寝起きする、赤色顔料を体に塗っている、食事は器から出掴みで食べている、人が亡くなった際のお墓の形式・お葬式の風習、食べ物には薬味を使っていない、猿やキジがいるのに食料にしていない、占いは骨卜、お酒を飲む習慣、一夫多妻制、規律正しい社会である事、などかなり詳細な部分にまで及んでいました。

  では今回からの話題である倭国の政治状況の記述に入ります。

最初に女王國の政治の中心地についてです。

 自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

「女王国より以って北、特に一大率を置き、検察す。諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中における刺史(しし)の如くあり。」

 これは、邪馬台国への行路の中にも出てきました伊都國について書かれています。現在の福岡県糸島市エリアですね? そこに「一大率」という政府機関、あるいは人材を配置して、女王國全体に睨みを利かせていたようです。諸国はこの一大率を恐れ憚っていました。あたかも中国に於ける刺史のような存在だとされています。

 伊都國については、魏志倭人伝の前段・行路の記述の中にも記されていました。

官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐

「伊都国 官は爾支と曰ひ、副は泄謨觚、柄渠觚と曰ふ。千余戸有り。ミソジ王有り。皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所なり。」

 女王國の中には、邪馬台国・投馬国・奴国といった人口の多い超大国が幾つか存在していますが、伊都國はわずか千戸ばかりの小国です。それにも関わらず、官が一人と副官が二人いて、女王國に属していた三十ヶ国の王様を統括している、と書かれていました。前段で書かれていたこの内容と、今回の「一大率」に関する記述とが、しっかり整合性が取れていますね?

 また、帯方郡からの使者、すなわち魏の使者たちが行き来して、駐在していた場所だという記述も見られました。伊都國がそれだけ重要な場所だったと同時に、魏の使者たちはこの国に留め置かれていただけで、女王の都・邪馬台国までは行っていなかった事がよく分かります。

 風俗習慣に関する記述でも、北部九州と合致する内容が多く見られますが、その理由も魏の使者たちが伊都國にて情報収集していたが故、だといういう事なのです。

 また女王國は、日本海に沿って細長く支配地域が構成されていましたが、その入り口と言える場所が伊都國でした。

「此女王境界所盡」女王の境界の尽きる所、となっていた場所は、博多湾沿岸地域の奴国ですが、その一つ手前が伊都國です。特別区のような政治・行政に特化した地域だったようですね? そこで政治経済や、他国との外交交渉などを執り行っていた事が分かります。

 なお、伊都國に置かれた一大率は、「女王国より以って北」となっていますが、これも理に適っています。

魏志倭人伝に記されている行路では、九州島最初の上陸地点・末蘆国から邪馬台国まででは、ずっと90度のズレがありました。これは、倭国の生命線とも言える海岸線の情報を魏の使者たちに知られる事を恐れて、彼らを騙したからです。最初から伊都國へ上陸させれば良いものを、あえて末蘆国(現在の佐賀県伊万里市)に上陸させ、背振山地などの険しい獣道を歩かせる事によって、方向感覚を狂わせたのです。

 魏志倭人伝の末蘆国の描写にも、

「末蘆国 草木茂盛 行不見前人」

末蘆国、草木茂盛し、行くに前人を見ず。

と記述されている事からも分かりますね?

 女王國の思惑は見事に成功しました。伊都國に着いた魏の使者たちは、自分たちが南方向に歩いて来たと信じ込まされてしまったようです。魏志倭人伝には、末蘆国から伊都國だけでなく、伊都國から邪馬台国までもずっと90度ずれた方角が記載される事になった訳です。

 では、伊都國の一大率の「女王国より以って北」とは?

この地図のように明らかですね? 記述された「北」という方角は、実際には90度ズレた「東」方向に当たります。

女王國の東の端には? そうです、伊都國があります。

 このように、女王國という全体像と、一大率の置かれた伊都國の位置関係も、しっかり理に適っているという事が分かりますね?

 さて、さらに伊都國に関する魏志倭人伝を読み進めると、

「王遣使 詣 京都 帯方郡 諸韓国 及郡使 倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物 詣女王 不得差錯」

「王が使を遣し、京都、帯方郡、諸韓国、及び郡使が倭国に詣るに、皆、津に臨みて捜露す。文書や賜遣の物を伝送し 女王に詣らすに、差錯するを得ず。」

 とあります。

これは政府関係者が外国へ行き来した場合の、伊都國の役割です。

女王國が、魏の都・洛陽や帯方郡、韓国、などへ使いを派遣したり、帯方郡の倭国へやって来たりした場合、港に出向いて調査、確認する。文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。

という事です。

 伊都國・一大率は、女王國内部の検察官としての役割りと共に、外国に対する検察の役割りも担っていたようです。

 魏志倭人伝をこの先も読み進めると、倭国から3回の朝貢、魏の使者の2回の来航の記述がありますが、その際の伊都國・一大率が、出入国管理局の役割り、あるいは税関の役割りも果たしていたという事がよく分かります。

 いかがでしたか?

これまでの倭国の風俗習慣の記述から一転して、かなり政治色の強い内容になってきましたね? このあたりの内容は、著者・陳寿の妄想が入り込む余地はなく、当時の魏の使者の報告書がそのまま記載されているように感じます。なお、意外かも知れませんが、これまで、女王・卑弥呼という文字は一度も書かれていません。この先にようやく登場して、卑弥呼の人となりや、卑弥呼の墓、などの記述へと続いて行きます。

邪馬台国チャンネル

魏の使者は邪馬台国へは行っていない

 これまでの内容から、魏の国からやって来た使者たちは、伊都國という場所に留め置かれていた事が分かりますね。魏志倭人伝には30ヶ国の国が書かれていますが、伊都國ほど詳細に書かれている国は、ほかにありません。邪馬台国にしても、女王の都であるとか、官職が四人いる、戸数が七万戸、だという記述だけです。それに、魏志倭人伝全体を見ても、邪馬台国という文字が出てくるのはたったの一回しかありません。前段の行路の記述に出てきただけです。

これから先を読み進めても、邪馬台国という文字は一切出てきません。また、女王・卑弥呼と会ったという記述もありません。もし、邪馬台国まで行っていたなら、魏という巨大な帝国からの使者と、倭国のトップとが面会しない訳がありませんものね?

 これらの事から、魏の使者たちは九州の伊都國に留め置かれて、そこで見聞した内容を本国・魏の国への報告書としたのでしょう。邪馬台国へは行っていないです。

 なお、邪馬台国は一回しか書かれていませんが、女王國という文字は6回も出てきます。女王國は、邪馬台国を含む諸国連合国家だからです。よく、女王國と邪馬台国とは同じだと勘違いされる方がいらっしゃるのですが、同じではありません。

 現代で例えるならば、女王國は日本国、邪馬台国は東京都、のような存在です。