邪馬台国チャンネルへようこそ。魏志倭人伝を読み進めて、27回目になります。
倭国の風俗習慣の記述に入っていますが、今回は、占いに関する風習の記述に入ります。卑弥呼の占い、というと纏向遺跡の桃の種を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか? これは畿内説を支持する人達による印象操作に過ぎません。桃の種を使って占いをしていた、などとはどこにも記されていないのです。魏志倭人伝を忠実に読んで行くと、その当時の倭国では、「骨を焼いて占う」という手法だったようです。
これまでに読み進めてきた魏志倭人伝の内容から入ります。最初は邪馬台国までの行路の記述でした。この図のような明確な道程が示されており、その間にある20ヶ国の旁國。これらをすべて含めた30あまりの国々が連合して「女王國」が成り立っていた事が分かります。その中の一つが邪馬台国であり、女王の都です。
行路の記述では、九州島に上陸してからはずっと、90度のずれがありました。これは、魏の使者たちを欺く目的があったようです。
女王國に敵対していた狗奴国については、ここでは南に位置するとだけ書かれていましたので、90度ずれた東に位置する近畿地方を指しているようです。
また、帯方郡から女王國までの距離が12000里という記述も正確でした。
風俗習慣の記述では、魏の使者が見聞した様々な事象が記されています。
#北部九州の伊都国@(現在の福岡県糸島市)に逗留していましたので、ほとんどが九州の風俗習慣でした。@@@倭人の身なりだけでなく、絹織物を生産しているとか、鉄鏃などの武器を持っている、などという描写です。
#また、日本列島の気候風土とは全く合致しない記述もありました。@@@それは、倭国はとても温暖で@冬でも夏でも生野菜を食べていたり、みな裸足だという描写で、それらは中国南部の海南島と同じだとされています。
#行路の記述において90度のズレがありましたので、どうやら著者の陳寿が@「倭国は南の島である」、という勝手な思い込みをしていたようですね?@@@海南島のイメージで倭人伝を書いてしまったのでしょう。
@@@自然環境の記述でも、広葉樹のみが存在していて南の島である事が強調されていましたので、その思考回路が明らかです。
#さらに人々の生活については、父母兄弟は別な場所で寝起きする、赤色顔料を体に塗っている、食事は器から出掴みで食べている、人が亡くなった際のお墓の形式・お葬式の風習、食べ物には薬味を使っていないとか、猿やキジがいるのに食料にしていない、など、かなり詳細な部分にまで及んでいました。
次からは、占いの風習に関する記述になります。
「其俗擧事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火占兆。」
「その俗、挙事行来、云為する所有れば、すなわち骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う。先に卜する所を告げる。その辞は令亀法の如し。火坼を視て兆しを占う。」
どこかへ行ったり帰って来たりする時や、何か気になる事がある時には、骨を焼いて吉凶を占いました。これは、令亀法という占いに似ていて、未来の事を予言する事だ、とあります。
骨を焼いて占いをするというだけの記述なので、焚き火の中に入れるのか、火の上であぶるのか、火箸みたいなものを骨にあてるのか、具体的な方法は全くわかりません。そこで、中国での方法を述べておきます。
古代中国で骨を焼いて占いをする方法は、骨卜(こつぼく)と呼ばれています。
鹿・猪などの獣骨に傷を付けて火で焼き、ひび割れの入り方で判断します。結果は、吉か凶かのどちらかという極めて単純なものです。これに用いられた獣の骨のことを、「卜骨」(ぼっこつ)と呼ばれていました。中国では、これに甲骨文字が刻まれているものも発見されています。
古代中国では、骨卜と並んで甲卜(こうぼく)と呼ばれる方法も盛んに行われていました。これも方法は骨卜と同じで、骨の代わりに亀の甲羅を焼いて吉凶を占うものでした。
「其辭如令龜法」その辞は令亀法の如し、と記されているのがこれに当たります。
日本での骨卜は、魏志倭人伝に記されているように弥生時代から始まったと見られ、その後の古墳時代や飛鳥時代、奈良時代、平安時代まで続いたとされています。それらの時代の祭祀系考古資料として各地の遺跡から発見されていますので、実在性が分かっています。出土する卜骨の多くは、鹿・猪の肩甲骨で、稀にイルカや野兎の例もあります。骨の表面に数ミリメートルの灼痕が10数個つけられており、火箸のような金属棒を押し付けた痕跡と考えられています。
弥生時代に限ってみると、卜骨の出土は鳥取県の青谷上寺地遺跡が最も多く、実に227点もの占いを行った痕跡のある卜骨がまとまって発見されています。この遺跡は集落遺跡としては小規模ながら、「弥生の博物館」と呼ばれるほどの珍しい様々な遺物が見つかっている場所です。卜骨のほかにも、殺傷痕のある人骨100体、保存状態の良い弥生人の脳みそ、多数の鉄器類、一風変わった木製品、翡翠や碧玉などの宝石類、など個性的な遺物が出土しています。
この地は、魏志倭人伝に記されている諸国連合国家である女王國に含まれていますので、占いに関する記述と、実際に発見されている遺物との整合性が取れる遺跡と言えるでしょう。
なお、奈良県の纏向遺跡から見つかった桃の種が、卑弥呼の占いに使われた。などという説がもっともらしく唱えられていますが、そんな事は魏志倭人伝のどこにも記されていません。
占いの次には、人々の集まりについての記述になります。
「其會同、坐起、父子、男女無別、人性嗜酒」
「その会同、坐起では、父子、男女は別無し。人性は酒を嗜む。」
倭人たちが会議をする際には、親子や男女の区別なく、平等に参加していたようです。素晴らしいですね。現代の日本社会よりも優れています。そもそも家族内での上下関係、男尊女卑の考え方は、後の時代に中国の儒教の影響を受けたものです。江戸時代の身分制度あたりから明確になったものです。もちろん大きな組織を運営する上では、上下関係を明確にしておいた方が運営しやすいのは確かですが。
いずれにしても弥生時代の日本では、まだ明確な上下関係が無かったというのは微笑ましいですね?
それから、お酒を好んだとあるのは、古今東西、共通している事です。それよりも弥生時代には既に、お酒を醸造する技術があって、みんなで宴会していたというのは興味深いですよね?
この次には注釈が入っています。これは著者・陳寿よりも100年ほど後の人物・裴松之(はいしょうし)によるものです。彼は、三国志全般に注釈を入れているのですが、魏志倭人伝では一ヶ所のみです。
「魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀」
魏略いわく、その習俗は正暦・四節を知らない。ただし春耕し秋収穫を計って、年紀とす。
魏略とは三国志と同じ時期に編纂された魏の歴史書で、寿も参考にした可能性がある書物です。現存はしていません。裴松之(はいしょうし)は、そこから引用して、魏志倭人伝に不足していた倭国の情報を追加したという事です。
内容は、倭国の暦に関する事です。中国のような正暦・四節を知らず、農業の収穫サイクルに従って一年としていたそうです。まあ、普通に一年ですね。
ところが、古代史研究家の中にはこの記述を曲解する輩も多数存在します。いわゆる二倍暦年というトンデモ説です。「その当時の倭国では、春に一年、秋に一年と数えていた。つまり現代の一年は二年とカウントされていた。」という理屈です。
なんでそんな曲解をするのかというと、日本書紀に記されている初期の天皇の年齢が百歳を超えるものが多くて生物学的に辻褄が合わないので、それが悔しくて屁理屈をこねているという事なのです。どうしても初代・神武天皇以来の万世一系を正当化したいが為に、魏志倭人伝の暦の記述を恣意的に解釈している訳です。
この二倍暦年に限らず、四倍暦年という一年を四倍にカウントする曲解もしばしば見受けられます。
歴史を自分に都合よく改竄してしますのは、隣国・K国の歴史観に似ていますね?
これらの詳細は、以前の動画で述べていますので、ご参照下さい。
「神話の天皇たち、実在したの? 年代を曲解してみた」
「神話の天皇の実在化 四倍暦年で辻褄合わせ」
いかがでしたか?
獣の骨を焼いて占いをするのが倭国日本では一般的だったようですね? 但し、女王・卑弥呼がこの方法を使っていたかどうかは、魏志倭人伝からは読み取れません。卑弥呼は「鬼道」をもって人々を惑わす、という記述があとの方に出てきますが、それと骨卜との関係性の記載がないからです。魏志倭人伝はあくまでも倭国全般に関する事であり、邪馬台国や卑弥呼を特定したものではありません。仮にもし、これらが邪馬台国を特定したものであったとすれば、卜骨が大量出土している鳥取県の青谷上寺地遺跡あたりが邪馬台国だという事になりますね?
文献解釈は我田引水
歴史学はどうしても古文書の文献解釈が主体になってしまいますね。「文献を読み解く」なんて言われると、なんだかご立派な古代史研究家のように思ってしまいます。ところがその実は、「文献を(自分の都合の良いように)読み解く」、という事をやっているだけです。自分がこうあって欲しいから、こう解釈する。という主観的で恣意的な解釈です。もちろん私も時々そういう過ちを犯してしまいます。
今回、後の方で裴松之(はいしょうし)の注釈について触れましたが、
「魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀」
「魏略いわく、その習俗では正月や四節を知らない。ただ春に耕し、秋に収穫したことを数えて年紀としている。」
たったこれだけの記述から二倍暦年や四倍暦年、なんていうトンチンカンな曲解をなさる方が、結構いらっしゃいます。ご自分ではちっともヘンテコな解釈だとは思ってなくて、「文献を読み解く」、なんておっしゃっています。
まあ、一事が万事。歴史学なんてこんなものです。
人のふり見て我がふり直せ。私は、できるだけ自然科学的な要素を取り入れて、客観的に歴史を眺めるようにこころがけています。