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魏志倭人伝を正確に読んで行くと、当時の日本列島の様子が手に取るように見えてきます。
日本海沿岸を沿うように「女王國」という名の、広域な諸国連合国家が形成されていました。そして、女王の都・邪馬台国は、「七萬餘戸」というその当時の超大国でした。
魏志倭人伝をさらに読み進めると、敵対していた「狗奴国」の記述があります。どうやらこれは、近畿地方を指しているようです。
これまでの動画で示しましたように、魏志倭人伝から読み取れる邪馬台国の場所は、この地図の行路のようになります。
またここは、天然の水田適地ですので、「七萬餘戸」というの超大国の条件にも一致しました。さらに、考古学的な豪華な出土品の数々や、古事記や日本書紀という文献史学のヒントにも適合する場所でした。
邪馬台国は、女王の都する所。すなわち女王國という広域の諸国連合国家の都です。魏志倭人伝には、女王國に属する国々の記載もあり、邪馬台国から北部九州へ向かって、21の国々の名称が記されています。
この中の最後に記された国の名称は、「奴国」です。これは、博多湾沿岸地域にある「奴国」と同じです。
ここは女王の境界尽きる所。となっていますので、奴国が女王國の境界線でした。
今回、魏志倭人伝のさらにその先を読み進めてみます。
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
「その南、狗奴国有り。男子が王と為る。その官有り、狗古智卑狗(クコチヒク)。女王に属さず。」
となっています。
ここには、重要な内容が含まれています。女王國に敵対していた狗奴国の存在と位置関係です。
ではまず、女王國から見た狗奴国の方角を考えてみましょう。
すぐ前の記述に奴国が女王國の境界とありました。また、すぐ隣の伊都国の記述には、「郡使往來常所駐」
「郡使往來し常に駐する所」とありました。すなわち、魏からの使者たちが駐在していたのは、伊都国という事です。
これら事から、狗奴国の位置は、奴国または伊都國から見た方角と考えられます。
方角に関しては、「その南」、とありますが、魏志倭人伝の記述は九州島に上陸して以来ずっと、90度の誤りがありましたので、修正を行う必要があります。すると狗奴国の方角は、東方向となります。
東には、女王國の全域がありますが、そのほかにも、瀬戸内海沿岸地域や、近畿地方、東海地方、関東地方なども東方向ですので、狗奴国の可能性があります。
残念ながら狗奴国に関する位置情報はこれだけですので、これ以上は当時の国力や考古学的資料から推測するしかありません。
狗奴国は、魏志倭人伝の後半部分で女王國と敵対した国として描かれています。そのため、まずは女王國に匹敵するだけの国力が無ければならないでしょう。古代国家の国力は、農業生産力です。
これらの候補地の中で、瀬戸内海沿岸地域はそもそも水田適地が少ないので、大国が存在していた可能性はありません。東海地方や関東地方は、弥生時代には平地のほとんどは海底や湿地帯でしたので、こちらも大国が存在していた可能性は低いでしょう。これは、土地の成り立ちが河川による沖積費平野ですので、古代にまとまった水田適地が得られなかった事によります。九州の筑紫平野に大国が存在していなかったのも、全く同じ理由ですね?
残るは近畿地方です。ここは申し上げるまでもなく、一般には邪馬台国の最有力候補地です。但し、農業生産の点では、弥生時代にはまだまだ大国にはなり切れていませんでした。
この地図は、近畿地方を拡大したものです。
現在の大阪市中心部は、弥生時代には海の底でした。
近畿地方の天然の水田適地としては、大阪市中心部から上町台地を挟んで河内平野があります。古墳時代に中心地だった場所です。飛鳥時代に日本の中心地となった奈良盆地南部も水田適地です。どちらも淡水湖跡の沖積平野ですので、水田稲作が古代の日本の中心となった原因と密接に結びついています。しかしながら、邪馬台国時代に同じように水田が広がっていたかというと、そうではありません。弥生時代に河内平野にあった巨大淡水湖は、その湖水が徐々に引き始めていた頃でした。実際に広大な水田地帯となったのは四世紀頃で、百舌鳥古墳群に見られるような巨大古墳の造成が始まった時期と一致します。
また、奈良盆地南部にも巨大な淡水湖がありました。その湖面は上下動を繰り返しながら、安定した水田適地となったのは、六世紀後半ころで、飛鳥時代の始まりと一致しています。
もちろんこれらは、ある一時期に突然に田圃が広がったわけではなく、弥生時代末期にもある程度の水田は広がっていました。そのため、一定規模の国家が成立していた可能性はあります。
瀬戸内、東海、関東などのほかの地域と比較すると、近畿地方の国力・農業生産力は、頭一つ抜けていたのは間違いありません。邪馬台国のライバル・狗奴国として、近畿地方は適しています。
一方、考古学的の視点からも、近畿地方に大国が存在していた可能性はあります。
有名な所では、奈良盆地南部の纏向遺跡や唐子・鍵遺跡があります。巨大な拠点集落跡ですので、強力な王族の存在を匂わせます。邪馬台国畿内説論者の多くは、この纏向遺跡を中心とするエリアこそが邪馬台国である、と主張しています。確かに、考古学的な根拠では筋が通っています。しかしこれが邪馬台国の遺物とするには、いろいろな無理があります。詳細は、また別の機会に述べるとして、近畿地方の位置関係としては、むしろライバル国である狗奴国の方が適格でしょう。
邪馬台国に匹敵するだけの弥生遺跡がありますので、抵抗勢力としての立ち位置の方が相応しいでしょう。
邪馬台国時代の日本海地域と近畿地方との間には、明らかな文化的断絶があります。
典型的な例は、鉄器の出土数量です。丹後地方から越前地方に掛けては、邪馬台国時代の鉄器出土数量が日本一多いエリアです。
ところが近畿地方からの出土はほとんどありません。これは瀬戸内地域や東海地域にも劣る出土量です。
また、弥生墳丘墓の規模、翡翠などの宝石類の出土なども、近畿地方は日本海地域よりも遥かに劣っています。
これらの事から、距離的に近いこの二つの地域には、文化の交流が遮断されていたと推測するには十分です。
すなわち、邪馬台国を中心とする女王國が日本海沿岸地域、敵対する狗奴国が近畿地方である、という事になります。
いかがでしたか?
九州説や畿内説という従来の説のほとんどは、狗奴国の場所を九州の熊本あたりに比定しています。これは、「南」という方角をそのまま適用した事によるものです。特に酷いのは、畿内説です。邪馬台国への行路では、「南」を「東」へと読み替えていたにも関わらず、狗奴国に関しては、なぜか「南」のまま適用しています。調子がいいですね。
方角には一貫性が必要です。一旦90度の修正を行ったからには、ずっとそれを通さなければ、矛盾が矛盾を呼んでしまいます。