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魏志倭人伝を正確に読み進めて行くと、弥生時代の日本列島の様子が手に取るように見えてきます。
前回までに、女王の都・邪馬台国がどこにあるかが明確になりました。そこは行路だけでなく、「七萬餘戸」という超大国の条件の一致、豪華な弥生遺跡群の存在、日本の歴史書との一致も見られました。
今回からは、さらにその先の記述を読み進めて行きます。
これまでに読み進めてきた魏志倭人伝では、邪馬台国の場所は次のようになりました。
朝鮮半島の帯方郡を出発して、狗邪韓国、海を渡って対海国。一大國。末蘆国。九州島の陸路で、末蘆国から伊都國。奴国。不彌國。そして、不彌國からは船で移動して、投馬国。さらに船で移動して、邪馬台国に至りました。
邪馬台国の場所は、大規模な天然の水田適地だった越前です。「七萬餘戸」という超大国の条件にも一致する上に、北部九州をも上回る豪華な弥生遺跡の数々。さらには、古事記や日本書紀という日本の歴史書にもその片鱗が見いだせました。
今回は、魏志倭人伝のさらにその先を読んでみます。邪馬台国までの行路の記述のすぐ後は、
「自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳。」
女王国より以って北。その戸数、道里は略載が可能であるが、その余の旁国は遠くして絶へ、詳細を得るのは不可能である。
まず、女王國について明確にしておかなければなりません。ここまでで「女王」という文字が出てきたのは、3回目です。
最初は、北部九州の伊都國の描写で、
「皆統屬女王國」
皆、女王國に統屬す。
とあります。
二回目は邪馬台国の描写で、
「女王之所都」
女王の都する所。
とあります。
つまり、女王國とは、伊都國から邪馬台国までの広域な諸国連合国家である事が分かります。その都が邪馬台国という事です。現代で例えるならば、女王國が日本国、邪馬台国が東京都、となります。
魏志倭人伝の記述の「女王国より以って北」にある「北」というのは、西方向を意味します。
これは、邪馬台国への行路の中で、九州島に上陸した後はずっと、方角記載に90度の誤りがあったからです。つまり、末蘆国から伊都國、伊都國から奴国へは「東南」、と記されていますが実際には北東方向。奴国から不彌國へは「東」、と記されていますが実際には北方向。さらには、不彌國から投馬国、および投馬国から邪馬台国へは「南」と記されていますが、実際には東方向だったからです。
ここでも同じように90度の修正を行いました。すると、
「女王國から西の方角は、その戸数、道里は略載が可能である。」となりますので、これまでの記述と一致した表現になっている事がわかります。
次に魏志倭人伝は、女王国に属する21ヶ国の名前を、順次あげています。これらは、北部九州から投馬国や邪馬台国へ向かった際に、「水行」という沖乗り航法で飛ばしてきた国々の名称でしょう。
「次有斯馬國、次有己百支國、次有伊邪國、次有郡支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國」
次にシマ国が有る。次にシハクシ国がある。次にイヤ国がある。次にグシ国がある。次にミナ国がある。次にコウコト国がある。次にフコ国がある。次にシャナ国がある。次にツソ国がある。次にソナ国がある。次にコイ国がある。次にカドソナ国がある。次にキ国がある。次にヰゴ国がある。次にキナ国がある。次にヤマ国がある。次にキュウシン国がある。次にハリ国がある。次にシユイ国がある。次にヲナ国がある。次にナ国がある。
これらのように、邪馬台国から日本海を西へ向かって、順次、国名を挙げています。国の名前だけで、規模や官の名前などの情報は全くありませんので、とても小さな国々だったという事でしょう。
これらの国々は、邪馬台国まで向かった行程とは逆、すなわち、邪馬台国から北部九州へ戻って行った際に通過した地域である事が容易に想像されます。
では今一度、投馬国から邪馬台国への行路を見てみましょう。「水行10日、陸行1月」でしたので、行きは水行、帰りは陸行となります。これは西から東へは、対馬海流を利用して若狭湾を沖乗り航法で一気に渡り切る事ができた為に、水行。一方、東から西へは、対馬海流が逆方向になるので沖乗り航法は困難になる事や、リアス式海岸である若狭湾を地乗り航法で進む困難さがある為に、陸行にせざるを得なかった、という事です。
また、運搬する荷物の影響もあります。西から東へは、九州や出雲から徴収した租庸調という大きな荷物を運ぶ必要があったので、必ず船で移動しなければなりません。一方、東から西へは重い荷物を運ぶ必要はありません。それゆえに、陸地を歩くのには全く問題ありません。
このように、投馬国から邪馬台国へは一気に移動しましたが、帰りは陸地を歩くわけですから、そこに存在していた小さな国々を通過したのは自明です。魏志倭人伝に記された21ヶ国の小国の内、数か国は邪馬台国と投馬国との間の国々だったのでしょう。
また、投馬国から不彌國に戻る際にも、対馬海流は逆方向になります。この場合、山陰地方の海岸線を移動する事になりますが、幸いにもリアス式海岸はないので、小舟の船団を組んで地乗り航法を行う事になります。
これは、考古学的な発見とも一致しています。投馬国・但馬の国の袴狭遺跡から発見された船団線刻画です。小型の準構造船の絵が描かれている木片で、まさに邪馬台国時代のものです。この絵のように、投馬国・但馬からは船団を組んで北部九州へ向かったのでしょう。地乗り航法の場合には日々、港に立ち寄らなければなりません。当然ながら、それらの港港が、女王國の支配下に入っていた小国だったと考えられます。
魏志倭人伝に記された21ヶ国の内の多くは、投馬国と北部九州との間の国々だったのです。
いかがでしたか?
邪馬台国から投馬国へは陸路となりますが、手ぶらで移動した訳ではなかったでしょう。越前を中心とする高志の国は、縄文時代から玉造りが盛んな地域です。この地で生産された勾玉や管玉などの宝石類を、陸路を使って運んだのでしょう。価値は高いけれども大きな荷物にはならないものですので、陸路で十分です。なお、北部九州の弥生遺跡からは、翡翠や碧玉などの北陸産の宝石類がたくさん発見されているという事実もあります。