卑弥呼がモデルとされる神功皇后の三韓征伐について、検証しています。
出航地は記紀に記されている越前・敦賀ではなく、同じ越前の三国と比定しました。当時の日本最大の水田地帯だった福井平野の、輸出入の拠点だった港です。
この港を高句麗へ向けて旅立った一行は、対馬海流に乗って次ぎの寄港地に向かいました。能登半島・福良津です。福良津は、奈良時代の渤海への出航地です。
これまで高志の国の中心地・越前・福井平野を調べて来ましたが、今回は、福良津を中心とする能登半島の遺跡や出土品などを調査しました。
弥生時代末期に三韓征伐で高句麗に向かったルートは、奈良時代の遣渤海使と同じだったと仮定します。邪馬台国・越前三国を出航した船は、能登半島の福良津に到着します。ここから、中国大陸へ向けて1000キロの日本海大航海が始まります。
以前の動画「航海の専門家 安曇一族」でも紹介しました通り、この地は、現代でも志賀町・安津見という地名が残っており、海人族・安曇氏の起源の場所です。
能登半島は、農地面積が少なく、国力としては貧弱ですが、三方を海に囲まれている土地ですので、古来より海洋交通の拠点でした。
弥生時代末期、邪馬台国の時代の重要な遺跡が、幾つか発見されています。
主な遺跡としては、志賀町の「鹿首(かしくび)モリガフチ遺跡」、羽咋市の「吉崎・次場遺跡(よしさき・すばいせき)」、七尾市の「奥原峠遺跡(おくはらとうげいせき)」です。
鹿首(かしくび)モリガフチ遺跡は、水田・集落遺構で、多くの弥生土器の出土があります。
吉崎・次場遺跡は、北陸地方で屈指の規模を誇る弥生集落で、国の史跡となっています。現在の現地の様子は、羽咋市によって、吉崎・次場弥生公園として良く整備されています。
奥原峠遺跡(おくはらとうげいせき)は、翡翠の玉造工房が発見されています。林藤島遺跡の2000点の鉄製工具には及びませんが、僅かながらの鉄器や鍛冶場跡があり、越前の影響を色濃く反映されている遺跡です。
この他にも、出雲風土記や記紀の神話に関連する神社や地域があります。
出雲風土記では能登半島先端の珠洲市、記紀では羽咋市の氣多大社(けたたいしゃ)です。
珠洲市は、国引き伝説由来の地です。「高志の都都の三埼」を引っ張って来て、出雲の「三穂の埼」にくっつけたという神話です。
能登から出雲に向かうには、対馬海流に逆らうことになります。おそらく高句麗へ向かう航路と同じように、日本海を反時計回りにダイナミックに航海して、出雲に到着したのでしょう。
越前の農業を基礎とした強力な国力と、能登の高度な海洋航海の技術力が融合して、遥か遠くの出雲を支配下に置いたのです。
一方、氣多大社(けたたいしゃ)は、記紀に記されている大国主命の伝説の地です。創建は奈良時代で、祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、すなわち大国主命です。大己貴命が出雲から300余神を率いて来降し、化鳥(けちょう)・大蛇を退治して海路を開いたという伝説があります。これは残念ながら、後付け伝説です。
また、輪島市は『倭の島』が由来という説もあり、高句麗からの渡来人が名付けた港だったのかも知れません。
中国大陸・高句麗への航路の開拓は、能登半島の海人族・安曇氏の活躍によるものです。
なお、安曇氏については、学術的には九州・志賀島が起源とされています。これもまた記紀の神話を根拠としていますので、明確な証拠が残っているわけではありません。
海人族伝説の残る地域としては、福井県三里浜や京都府丹後半島の海部郷(かいべごう)、記紀に記された海人族神話では、但馬のアメノヒボコ伝説、若狭・舞鶴の豪族・海部(かいべ)氏、敦賀のツヌガアラシト伝説などがあります。
これらのように、能登半島の福良津周辺には、海洋民族の伝説や、高志の国が邪馬台国だったと推測される出土品があります。ただし残念ながら、船舶に関する出土品は、これまでのところ発見されておりません。
邪馬台国・井の向遺跡の大型準構造船の絵や、投馬国・袴狭遺跡の小型準構造船団の絵のような、弥生時代末期の特徴的な船舶資料が出土する事が期待されます。
次回は、邪馬台国・高志の国の重要な輸出資源である『翡翠』の産地や、玉造り工房の遺跡群について調査します。