邪馬台国・卑弥呼の時代(3世紀)の「鉄」の供給源はどこか?
魏志東夷伝に基ずく朝鮮半島南部の弁辰か? 三韓征伐に基ずく高句麗か?
どちらにしても、交易の基本である運搬・移動手段が確立されていなければ、成り立たない空論です。
以前の動画では、奈良時代の遣渤海使の航路や、海人族・安曇氏の存在から、五世紀頃からの日本海巡回航路が確立していた事を確認しました。
では、三世紀の弥生時代末期・三韓征伐の頃も同じように、日本海をダイナミックに航海していたのでしょうか。
今回は、邪馬台国が三韓征伐に向かった当時の船舶の性能を、木造船の発展の歴史や、銅鐸に描かれた船の絵から、推測して行きます。
奈良時代に始まった公的な交流機関・遣渤海使は、反時計回りの日本海巡回航路を使っていました。これは、対馬海流やリマン海流、および季節風を利用した効率的な沖乗り航法です。
高志の国・能登の福良津から、一気に日本海を渡り切り、対岸の渤海国に到着するダイナミックな航法です。
奈良時代の朝廷による公的な交流ですので、民間レベルでは、五世紀頃にはこのルートでの航海が行われていたと思われます。
では、三韓征伐の三世紀にも可能だったのでしょうか?
三韓征伐の時代、すなわち邪馬台国・卑弥呼の時代の船舶を推定するに当たり、まずは、八世紀・奈良時代の船から検証を試みました。しかし、残念ながら、遣渤海使・遣唐使とも、使われた船の資料は現存していません。
そこで、日本における木造船の発達の歴史から探っていきます。
木造船は、大きく分けて、丸木舟→準構造船→構造船へと進化しています。
まず、縄文時代には丸木舟でした、これは、一本の木を刳り抜いただけの舟で、縄文遺跡から出土しています。大型のカヌーですが、少人数しか乗り込めず、安定性も悪いので、物資の運搬には不向きです。
次に、古墳時代の五世紀頃には準構造船となりました。
これは 丸木舟を船底にして、舷側板(げんそくいた)や竪板(たていた)などの船材を加えた船です。船の先(船首)が上に突き出ているのが特徴で、外海の大きな波を受けても乗り切る事が出来ます。但し、一艘に乗り込める人数は、多くても50人程度で、荷物の運搬用であれば、指揮官・漕ぎ手・舵取りだけの20人程度が限度です。この準構造船は、古墳から出土する埴輪から存在は明らかで、室町時代の15世紀頃まで使われていました。遣唐使や遣渤海使の船は、この区分に含まれます。
そして室町時代以降は、構造船です。これは、骨組みと板材によって建造された船で、現代にも通じる木造船です。
では、弥生時代はどうでしょうか?
越前・井の向遺跡の大石銅鐸に描かれた船では、船の先(船首)が上に突き出ています。指揮官や漕ぎ手の姿も分かります。櫂のような線や、小さな十字型の支柱もあります。これは舵取り用の補助的な帆を張る帆柱と見られます。
丸木舟ではここまで進化した形にはならないので、準構造船と見られます。
弥生時代末期には、鉄器道具の使用で木材工作技術が飛躍的に向上した事から、すでに奈良時代と同じような準構造船を造っていたのでしょう。
三韓征伐で高句麗へ向かう航路も、船の性能だけならば、日本海巡回航路を使う事は可能だったと推測できます。
なお、遣唐使の船は、この画像の様な船がよくイメージされます。しかし、これは室町時代以降の構造船で、実像とはかけ離れています。100人以上乗り込める超大型船舶は、準構造船で作る事は出来ません。遣唐使の船は、実際には弥生時代末期と同じレベルだったと見るべきでしょう。
神功皇后の三韓征伐の航路は、記紀には記されていません。高志の国・敦賀を拠点に出発していますので、後の時代の遣渤海使と同じルートを使った可能性は大いにあります。今回、弥生時代の船が、奈良時代の船と同じ水準にあった事を検証しました。
では、その船が果たしてどれだけの性能を持っていたのでしょうか?
これは、平成元年に大阪市が実証実験しています。「大阪市なみはや号プロジェクト」という企画で、大阪から釜山まで実際に航海しました。
次回は、その実験結果から得られた古代の航海術について、考察します。