邪馬台国・高志の国の最重要交易品である翡翠。
翡翠硬玉の原石は、新潟県糸魚川市に鉱脈がありますが、それが発見されたのは、昭和13年になってからです。奈良時代に忽然と姿を消し、1200年もの間、日本国内に翡翠の鉱脈がある事を知る者は、いなかったのです。
古事記の大国主命神話に、高志の沼河比売(奴奈川姫)との恋愛物語がありますが、『翡翠』という言葉は見当たりません。
今回は、鉱脈発見のきっかけや、古事記や出雲風土記、万葉集に描かれた糸魚川の様子について考察します。
まず、主な玉造遺跡を時代順に並べます。
5500年前の縄文時代に、世界最古の玉造工房が、高志の国・糸魚川で出現します。弥生時代の邪馬台国の頃には、鉄製工具を使った玉造工房が、高志の国・福井に出現します。古墳時代には、日本全国に存在していた玉造工房ですが、どういう訳か、出雲の国だけに集中して行きます。
ところが、その後は、玉造りの文化は、徐々に衰退しました。
出雲地方だけに残っていた玉造工房も、飛鳥時代には姿を消す事になります。
時を同じくして、翡翠の加工品も無くなり、現代まで糸魚川に鉱脈がある事も忘れ去られました。
この鉱脈を再発見したのは、相馬御風(そうま ぎょふう)という人物です。早稲田大学の校歌「都の西北」の作詞者として有名で、糸魚川市出身の文人です。壮年以降を故郷の糸魚川で過ごし、地元の考古学に熱中しました。そんな中で、昭和13年に姫川上流の小滝川で発見したのが、翡翠硬玉の鉱脈だったのです。分析の結果、石の組成は、日本各地で出土する大珠や、勾玉の成分に一致することがわかりました。
この発見までは、日本国内に翡翠の鉱脈があるなどとは、誰一人想像していなかったのです。
古文書には、糸魚川地域に関連する記述があります。
古事記では、大国主命の、高志の沼河比売(ぬなかわひめ)との恋愛物語が有名です。
大国主命が高志の沼河に住む姫を妻にしようと思い、沼河比売の家の外から求婚の歌を詠みました。沼河比売はそれに応じる歌を返し、次の日の夜、二人は結ばれた。という話です。
また、出雲風土記でも同じような内容の神話があり、結婚だけでなく、離婚や、姫の自殺の話にまで及んでいます。
但し、古事記の中でも出雲風土記の中でも、翡翠という宝石に関する記述はありません。
この神話が、翡翠に関連しているとされたのは、昭和13年に翡翠鉱脈が見つかってからです。
大国主命が、熱心に越の沼河姫に求婚したのは、翡翠の原産供給地を掌握するためだったとする説がありますが、これも鉱脈が見つかった後のこじ付けに過ぎません。
なお、万葉集には翡翠を連想させる長歌があります。
「沼名河の底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも あたらしき君が 老ゆらく惜しも」
これもまた、鉱脈が見つかった後に、翡翠とこじ付けただけで、奈良時代に糸魚川の翡翠の認識があったかどうかは疑わしい所です。
次に、奴奈川姫や翡翠伝説の残る神社です。糸魚川市や長野県に多く存在しています。
神社伝説は根拠が希薄ですが、一応紹介しておきます。
奴奈川姫を祭る主な神社としては、糸魚川市の
奴奈川神社
天津(あまつ)神社
白山神社
長野県では、
諏訪大社などです。
また、奴奈川姫にまつわる伝説も糸魚川には数多く残っています。
しかしながら、それらの神社に翡翠が祭られている訳ではありません。
翡翠に関する伝説もありますが、残念ながら、昭和初期に発見されてから作られたものです。
翡翠が消えた理由には、様々な説があります。
・翡翠硬玉の価値が認められたのは近世に入ってからで、元々価値が無かったという説。これは、古代中国の翡翠はほとんどが軟玉(なんぎょく)だという根拠です。
・碧玉(へきぎょく)やメノウ、ガラス玉などに押されて、翡翠の玉の需要が減少したという説。
・仏教伝来で衰退したという説。これは、翡翠が強い霊力を持ち、厄払いに用いられていましたが、仏教伝来で信仰の対象から外されたというのが根拠です。
・豪族たちの権力の象徴が、宝石類から金銅製の冠など、光輝く物へと変わったからという説。
などがあります。
ただ不思議なのは、いずれの理由にしても、糸魚川から産出される事さえも忘れ去られてしまうのは、『謎』です。
翡翠の鉱脈が高志の国・糸魚川にある事を、人々の記憶から失われて行きました。どんな理由があるにせよ、鉱脈さえも忘れてしまうとは???
糸魚川やその周辺の翡翠伝説は、昭和13年に鉱脈が発見されてからのものです。古代に翡翠の原石採集に従事していた人々は、なぜ伝説を残す事もなく、消えて行ったのでしょうか???
歴史から消された邪馬台国と、人々の記憶から消された翡翠。
次回は、飛鳥時代の藤原氏と蘇我氏との対立など、邪馬台国が歴史から消された原因と、翡翠が消された因果関係を、私なりの解釈で推察します。