高志の国の弥生時代を俯瞰してみると、農業生産が大きい地域は、越前・福井平野のみでした。越前(加賀・能登)、越中、越後という、そのほかの高志の国は、現代のような「米どころ」という場所ではなかったようです。海水と淡水が混ざった湖・汽水湖だったり、水田稲作に不適格な扇状地形だったりした為です。
現代の北陸の中心地である石川県金沢市周辺も、弥生時代には湖沼地域で、農業生産が少なく、僻地のような場所でした。
今回は、加賀・能登地域に絞って、さらに具体的に弥生時代の地形の様子や、農業生産性を探って行きます。
高志の国は、飛鳥時代に「越」と改名され、越前、越中、越後に分けられましたが、奈良時代には能登が分割され、更に加賀が分割されました。
これは、能登や加賀が独立できるだけの力を備えていたからではなく、むしろ、辺境の地ゆえに管理が及ばなかったのが理由のようです。
古墳時代から、高志の国の国府は、福井平野南部の府中(現在の福井県越前市)にあり、辺境の地だったのは越後、越中だけではなく、能登や加賀を管理するにも、距離が離れすぎて大変だったのです。
現代のイメージでは、加賀百万石の金沢市が北陸地方の中心と思われがちですが、古代の様子は、かなり異なっています。
では、邪馬台国時代の加賀地方・能登地方の様子を、6000年前の縄文海進の頃に遡って、見てみましょう。
縄文海進の時代には、日本全国、平野部はほとんど無くなりました。加賀・能登地域も、この地図のような状態でした。
この時期に現在の沿岸部には、対馬海流によって砂礫層が積み上がります。
縄文海進が終わった後には、海岸沿いに湖が残りました。
ここで、福井平野の方は湖底の高さが海面より高かった為に、淡水湖となりましたが、加賀・金沢平野の方は海面よりも低かった為に、海水と淡水が混ざり合う「汽水湖」となりました。
その為、福井平野の方は弥生時代中期には水が引き、広大な水田地帯となりましたが、金沢平野の方には、湖が残りました。また、中央部には「手取川」という大きな川が流れて込んでいたので、扇状地が形作られ、徐々に湖を分断しました。弥生時代末期には、これらの湖の湖畔だけが農耕地だったので、国力としてはかなり小さかったようです。
一方、能登の平地エリアは、福井平野と同じように淡水湖だったようです。淡水湖だった為に、比較的早い時期に、水が引き始め、沖積平野となりました。それは、「吉崎・次場遺跡」という弥生時代末期の大集落が存在していた事から分かります。
能登は平地の面積は小さいながらも大集落が出現するだけの農業生産があり、海洋交易の拠点でもあったので、加賀と同レベルか、あるいは、それ以上の国力があったと思われます。
金沢平野の農業生産ついて、時代ごとの収穫高を断定できる調査は行われていません。但し、近世の様子から、古い時代の農業の様子がある程度、推測できます。
江戸時代に加賀百万石という繁栄期になりましたが、その時代でもまだ湖の干拓工事が行われていた記録が残っています。この地の汽水湖の水引は、かなり遅かったのでしょう。
関ケ原の戦いの後、前田利家が加賀の藩主になり、外様大名としては日本最大の百万石となりました。これだけ聞けば、加賀の農地は大きかったと思いがちですが、実際は、加賀、能登、越中の三国を合わせた広大な領地です。加賀のみの石高は、40万石に満たなかったそうです。
そのため江戸時代を通して、農地を広げるのに湖の干拓工事を行って、農地を広げていたのです。前田家は苦労していたのですね。
ちなみに、前田利家の目付け役として越前・福井藩に配置された松平秀康公は、小さい領地でありながら68万石でした。
これを見ても、加賀、能登、越中が、面積の割に農地が少なかった事が窺い知れます。
なお金沢平野には、現代でも小さな湖沼がいくつも残っており、古代において、この地域が湖だった事を物語っています。
当然の事ながら、現代の中心都市は、弥生時代においても中心都市とは限りません。東京や横浜が、弥生時代には日本で最も遅れた後進地域だった事からも分かります。
金沢を中心とする加賀百万石も、江戸時代になってようやく開拓されて、表舞台に登場する都市です。
高志の国という、邪馬台国時代の超大国を語る上では、加賀は『僻地』という表現が当てはまってしまう場所だったようです。弥生遺跡も特筆すべきものはなく、王族の墓もありません。
一方、能登は海洋交通の要衝だっただけでなく、農地も比較的早い時期に出現したので、弥生遺跡も豊富です。
次回は、高志の国・越中の弥生時代の地形や農業生産について考察します。