こんにちは。八俣遠呂智です。
記録に残る日本最古の超大国。邪馬台国の場所は広大な天然の水田適地があった場所です。大規模稲作によって日本列島で初めて人口爆発が起こり、七萬餘戸もの超大国が出現したのです。
今回は、江戸時代の石高を基に、邪馬台国を、同じ面積で水田不適地だった国との比較で、考察して行きます。
江戸時代初期に記された慶長郷帳は、日本で最初に正確な農業生産高を石高という形で表した記録とされています。
これまでに、近畿地方や九州地方、そして邪馬台国と比定される越前の国、などの石高推移を比較検討してきました。
しかしながら、重要な点を無視してきました。それは、国ごとの平地の面積です。平地の面積が広ければ広いほど、当然ながら石高は大きくなります。例え水田に適さない土地が多かったとしても、全体の面積が広ければそれだけ収穫高が大きくなるのは自明でしょう。
典型的な例は、筑前の国・現在の福岡県北部地方です。ここには、筑紫平野や福岡平野、直方平野などの平野が多く、全体に占める平地の割合が非常に高い地域です。この筑前の国の江戸時代初期の石高は53万石なのですが、一見すると、「そんなに悪くないんじゃない?」と思えてしまいます。
ところが平野の面積から見た農業生産高では、かなりお粗末な石高と言わざるを得ません。
今回はそれを証明する為に、天然の水田適地だった国を基準に、それと同じ面積を持つ水田不適地だった国を示し、両者の農業生産高を比較して行きます。
天然の水田適地だった国は、これまで何度も示しました通り、越前の国(福井県北部地域)です。一方、これと同じ平野の面積を持つ水田不適地として、阿波の国(徳島県)を挙げます。この両者の石高を比較する事で、「天然の水田適地」が持つ意味合いが、より明確になるでしょう。
まず、当倍率の地図で、平地の様子を見てみましょう。
どちらも山地が多く、平地は全体の四分の一程度しかありません。現代でもほとんどは、農耕地として利用されています。日本全国の平野と比較すると、かなり狭い部類に入り、現在の人口も80万人程度という小規模な地域ですので、両者はとてもよく似た環境にあります。
ところが、一方は邪馬台国時代の超大国だったのに対して、もう一方は極めて小さな国でした。
それは、地形的な違いという定性的な観点からだけでなく、江戸時代の石高帳という定量的な観点からも、明確に見えてきます。
はじめに定性的な観点、すなわち、両者の平野の成り立ちの違いから入って行きます。
越前の国・福井平野の方は、7000年前の地球温暖化の時代に、海面上昇、いわゆる縄文海進が起こって水没してしまいました。その期間に対馬海流の作用によって水の出口部分に砂礫層が積み上がりました。そのために、縄文海進が終わって海面が下降しても、内陸部は湖として残りました。それから数千年掛けて、山々からの栄養豊富で粒子の細かい泥状の土が堆積して行きました。やがて湖の水は引き始め、弥生時代中期ころには、べったりと平坦で水はけが悪く、栄養豊富な水田適地が出現したのです。丁度、弥生時代という水田稲作が伝来した時期でしたので、雑木林に変貌する前に水田として活用でき、大きな農業生産と、人口の大爆発が起こったのでした。
なお、越前福井平野と同じような成り立ちは、古墳時代に隆盛を極めた河内平野、飛鳥時代以降に日本の中心地となった奈良盆地南部にも見られる構造です。また、米どころ越後・新潟平野も同じ構造ですが、江戸時代から明治時代に掛けての近世になってからようやく湖の水が引いて、遅まきながら人口爆発が起こったという違いがあります。
一方、阿波の国・徳島平野の方も、7000年前の縄文海進によって水没しました。ところが越前・福井平野のように水の出口が塞がれる事がなかった為に、海面が下降した後も、谷のような地形が残ってしまいました。そこから数千年掛けて、吉野川の堆積作用によって徐々に平野が広がって行きました。残念な事に水田稲作が伝来する前の時代だったので、平地となった場所は農地として利用されず、湿地帯から草原地帯、そして雑木林へと変貌してしまったのです。
水田稲作が始まった2000年前頃は、ほとんどが密林地帯でしたので、大きな労力による開墾作業が必要になってしまいました。牛や馬がまだ伝来していなかった時代で、しかも鉄器もごく僅かしかない時代でしたので、人工的に水田を広げて行くのは、至難の業だった事でしょう。
水田に活用できた土地は、海に面した僅かな平地だけだったのです。
なお、徳島平野は太平洋側各地に見られる一般的な沖積平野で、特殊なものではありません。筑紫平野、濃尾平野、関東平野、なども同じような成り立ちです。これらの地域では、大きな人口爆発は起こりませんでした。
ではこのような、土地の成り立ちは異なるけれども同じ面積を持った2つの平野を、定量的な観点、すなわち農業生産高の視点から見てみましょう。
日本で最初に正確な農業生産を数値化したのは、江戸時代初期の徳川家康による慶長郷帳です。この記録によると、淡水湖跡の沖積平野の越前は、68万石。河川による沖積平野の徳島平野は19万石です。越前が3倍強もの大きな石高です。この差は一体何なのでしょうか?
農地の開拓開墾は室町時代あたりから一気に進んだとされていますが、江戸時代になったもまだ、開拓開墾の必要のない天然の水田適地と、開拓開墾が困難な土地との差が、歴然と残っていたと捉えるべきでしょう。
なおこのデータは、阿波・徳島平野が劣っていた事を示すものではありません。越前・福井平野があまりにも優れていた事を示すものです。当時の全国の石高を見ても、越前は面積が狭いにも関わらず、トップクラスにランクされていますので、天然の水田適地だった事実が江戸時代でも顕著に残っていたという事です。
さらに時代が進むと、これら2つの平野に明らかな傾向が見られます。
慶長郷帳から260年ほど後の、明治時代初期に調査された石高です。明治5年(1872年)のものです。それによると、越前の国は、69万石。阿波の国は、31万石。となっています。相変わらず2倍以上の差がありますが、伸び方の違いが明らかです。
越前は260年間で、たったの1万石しか石高が伸びなかった。それに対して、阿波の国は、12万石もの伸びがあったのです。
ここから分かる事は、越前の国の場合は、江戸時代にはもはや新たに開拓開墾する余地が残されていなかった。天然の水田適地が故に、古代から広く農地として利用されていた為に、農業生産高は高止まりしており、もはや新たに開拓開墾する土地は残されていなかった。という事でしょう。
一方で、阿波の国の場合は、河川による沖積平野ですので、古代には雑木林となっていた吉野川の上流部では開墾すれば農地に出来る土地はいくらでも残っていた。下流部では、堆積作用によって年々陸地が広がって行った。という事です。
このように、江戸時代というわずか260年間の農業生産高の推移からも、古代における天然の水田適地と、そうでない場所との傾向が明確に表われています。
では、この江戸時代の開拓開墾の歴史が、弥生時代から同じペースで直線的に推移してきたと仮定して、邪馬台国時代の石高を推測してみましょう。
もちろん、開拓開墾には様々な要因がありますので、直線的という仮定に疑問を持たれるでしょうが、ここではあくまでも「傾向」を見る主旨である事をご理解下さい。
このグラフは横軸が西暦で右端が明治時代、左端が邪馬台国時代です。縦軸は石高です。
まず阿波の国の場合、明治時代初期・1872年の石高は、31万石。江戸時代初期・1604年の石高は、19万石です。これが同じペースで開拓開墾が行われたとすれば、1300年頃の鎌倉時代には、阿波の国には農業生産が無かった事になります。
一方越前の国の場合、明治時代初期・1872年の石高は、69万石。江戸時代初期・1604年の石高は、68万石です。これが同じペースで開拓開墾が行われたとすれば、邪馬台国時代の200年頃には既に、60万石以上もの農業生産高があったという事になります。
石高という単位は、人間一人が生きていけるだけの生産力という意味合いがありますので、邪馬台国時代の越前には、60万人以上もの人口がいた事になります。
これらのように、越前と阿波という、ほとんど同じ平地面積を二つの国ですが、土地の成り立ちが異なっているために、古代の農業生産には、極端が差が表れているのがお分かりでしょう。
同じくらいの平地面積を持ちながら、江戸時代に大国だった越前の国(福井県北部)と、小国だった阿波の国(徳島県)との比較で、「天然の水田適地」の持つ意味合いが、より明確になりました。
いかがでしたか?
ここで、魏志倭人伝の記述を思い出してみましょう。邪馬台国には、七萬餘戸という当時としては最大の超大国だったという記述があります。一戸あたり6人住んでいたとすれば、42万人もの人口がいた事になります。これだけの人口を賄うには、42万石以上の農業生産力のある場所でなければなりません。弥生時代にそれだけの農業生産があった場所、それこそが邪馬台国の場所です。