八俣遠呂智へようこそ。
記録に残る日本最古の超大国。邪馬台国の場所は広大な天然の水田適地があった場所です。大規模稲作によって日本列島で初めて人口爆発が起こり、七萬餘戸もの超大国が出現したのです。
そうは言っても、当時の農業状況を推測するのは容易な事ではありません。当然ながら古代農業を数値化した史料が無いからです。そんな中で、中世から近世に掛けての史料の中に、そのヒントを見つけ出す事が出来ました。
今回は、そんな史料のいくつかを拾い出してみます。
日本の農業の歴史を辿ってみると、16世紀の豊臣秀吉の時代に、所謂「太閤検地」が行われて、初めて農業生産高を数値化しました。しかしそれは、現代からわずか400年前の事です。邪馬台国時代は、それよりもさらに1300年も前です。その当時の農業生産高はどうだったのでしょうか?
これまで、土地の成り立ちや気候などから、日本全国各地の平野を調査し、定性的に検証してきましたが、これを定量的、すなわち数値化する事は出来ないものでしょうか?
古代の農業生産には、土地の成り立ちや気候だけでは表しきれない数多くの要因が内在しています。そのために、簡単に数値化できるものではありません。
古代史研究家の中にもこれまでに、農業生産を数値化しようとした試みがありましたが、残念ながらすべて失敗に終わっています。
よく知られているところでは、数理統計学という手法があります。一見客観的と思える手法ではありますが、実際には研究者が望む結果を正当化する為の手法に過ぎません。そもそも統計学というのは、望む結論を導き出す為に、どうにでも操作できる手法です。結論ありきで、自分の説に都合の良いデータだけを組み合わせて、結果を導き出せるのです。
例えば、邪馬台国・甘木朝倉説を唱える研究者は、この数理統計学を利用して、筑紫平野の農業生産が高かったというデータを作り上げた為に、すっかり信用を落としてしまいましたね。
また明治時代には、沢田吾一という数学者が八世紀・奈良時代の農業生産力を計算して、研究発表した事があります。これもまた、万人の支持が得られるものではありませんでした。それは当時の水田開拓史をかなり誇張したものだったからです。
このように、古代の農業生産を現代の手法で数値化・定量化するのは容易な事ではありません。
そこで今回は、実際に古文書に記されている記録を参考にしてみる事にしました。天然の水田適地の姿を明らかにするには、史料が古ければ古いほど実態に近くなります。
現存する史料を加味して、弥生時代末期の農業生産力が高かった地域を推定して行きます。
そして、その場所こそが邪馬台国という事になります。
では、具体的に水田稲作に適した場所を推定できる古文書は存在するのでしょうか?
現存する最も古い水田地帯の記録は、奈良時代、すなわち八世紀の荘園絵図です。荘園は奈良時代の墾田永年私財法によって農地の私有化が認められて、日本全国に広がった農地です。それを絵に描いたものが荘園絵図です。
使用目的は、領域を明確にして支配の正統性を主張したり、あるいはそれに起因した具体的な紛争を解決するための手段として用いられたものと見られます。いわば土地の権利証のようなものです。
今回調査している「天然の水田適地の数値化」、とは少しずれるものの、古代において纏まった面積の水田が存在していた事を裏付ける資料にはなるでしょう。
この荘園絵図の最も古いものは、東大寺の正倉院に保存されていたものです。
ここには、近江の国(現在の滋賀県)、越前の国(現在の福井県北部)、および越中の国(現在の富山県)、の三国に東大寺所有の広大な荘園があった事を示す絵図が残されていました。
もちろんこれだけをもって、日本列島の天然の水田適地を定量化できるものではありませんし、近江、越前、越中が特に農業生産に優れていたとは結論付けできません。しかし、古代の水田稲作地帯を想像する一つの目安にはなるでしょう。
平安時代に入ると、荘園は増え続け荘園絵図も多くなります。そしてさらに、農業生産の目安を数値で示した古文書も現れます。延喜式という平安時代中期の律令の施行細則です。その中に公出挙稲(くすいことう)という稲の貸付け制度の項目があり、国ごとの収穫高の目安とされています。
この中の上位の記録には、
常陸の国180万束
越前の国170万束
陸奥の国160万束
肥後の国160万束
とあります。この内、陸奥の国は東北地方の広大な面積がありますので、水田適地との因果関係は薄いでしょう。
また、意外にも関東地方が現れます。常陸の国・茨城県です。この地は飛鳥時代ころまでは低湿地帯が広がる地域でしたが、奈良時代から平安時代に掛けて広大な水田適地が広がった場所です。鹿島神宮に象徴されるように、飛鳥時代後期から強力な勢力になった地域です。
この中で、越前の国と肥後の国が上位に入っているのは注目すべきです。この地域には、福井平野と、菊池盆地という、淡水湖が干上がった天然の水田適地があります。常陸の国や陸奥の国に比べて、面積的には圧倒的に狭いものの、多少の開拓が進んだ平安時代になっても依然として上位に食い込むほどの農業生産があった事を示しています。
これまでの考察でも、弥生時代には日本列島屈指の水田稲作適地だったとして頻繁に取り上げてきた場所でした。定性的に三世紀の弥生時代の大きな農業生産を推定していましたが、800年も後の平安時代においても、定量的にその存在は証明されたと言えるでしょう。
福井平野と菊池盆地は、邪馬台国時代に人口爆発が起こって、超強力な勢力が存在していた事は間違いありません。
さらに時代を下って、鎌倉時代に入ると、日本列島は武士が支配する封建制度の国になりました。これは中央集権から地方分権へと政治体制が移行したという事です。税の徴収は、それまでヤマト王権が直接行っていたものが、守護や地頭といった各地の統治者が行うようになりました。それによって、延喜式のようなヤマト王権が管理した古文書は無くなってしまいました。
その代わりに日本列島全土で開拓開墾が大いに行われた農地拡大期は、この時代です。地方分権というのは、開墾すれば開墾しただけその国が豊かになる制度です。頑張れば頑張っただけ収入が増える訳ですから、各地で自主的に農地開拓が行われた時代でした。
一方で同じ封建制度の室町時代に入ると、南北朝や戦国時代という争乱の時代になってしまいました。実はこれは地方分権による弊害だったとされています。各地に強力な勢力が出現した為に、権力抗争が激しくなってしまったという訳です。農地開拓と戦争とは、両刃の剣だったのですね。
安土桃山時代になって戦乱が終息し始めると、豊臣秀吉が日本で初めて農業生産を定量化しました。いわゆる太閤検地です。これは、農民のずる賢さを知り尽くした豊臣秀吉だったからこその大事業だとされていますが、そればかりではなかったでしょう。農業生産をしっかり管理して国家を運営する事は、時代の流れとして当然だったのかも知れません。
さらに江戸時代に入ると、徳川家康によって慶長郷帳が作られました。これは太閤検地よりもさらに正確に農業生産高を記したものです。徳川幕府の年貢の徴収は、これを基に行われたとされています。
江戸時代まで来ると、日本列島のかなりの平野は開拓開墾されていました。しかしこの時代でもまだ、天然の水田適地と、そうでない場所との石高の違いが明確になっています。それは、土地の成り立ちが影響しています。その詳細は次回に示すとして、今回は慶長郷帳の石高の高かった地域を示します。トップ8まで順に、
陸奥の国、173万石。
出羽の国、87万石。
武蔵の国、84万石。
近江の国、83万石。
常盤の国、75万石。
越前の国、68万石。
美濃の国、58万石。
肥後の国、57万石。
弥生時代の水田適地という観点からは、東北地方の陸奥の国や出羽の国は、広大な面積ですので石高が大きいのは当然なので除外します。また、武蔵・常陸という関東地方や、琵琶湖のある近江の国、中京地方の美濃、という国々は、弥生時代には海底や湿地帯だった場所で、江戸時代までの1300年間で陸地になったり開拓したりして、農地が広がった地域です。
江戸時代という開拓開墾が進んで、水田稲作が日本全国に完全に定着した時代でさえ、天然の水田適地の力強さはしっかりと残っていたという事です。
面積的には決して広くない場所が上位に食い込んでいます。それは弥生時代からの穀倉地帯、越前の国と肥後の国です。
いかがでしたか?
1800年も前の邪馬台国の時代の農業生産を数値化するのは、簡単な事ではありません。それでも江戸時代の史料に、弥生時代の水田適地の片鱗が残されていた事はお分かり頂けたでしょう。
ところで、江戸時代の石高から明確に分かる事は、むしろ水田稲作には不向きな土地かもしれません。つまり開拓開墾が進んだ時代であってもなお、相変わらず農業生産が上がらなかった地域です。
それは、北部九州地域です。