日本最古の超大国⑥

 記録に残る日本最古の超大国。邪馬台国の場所は広大な天然の水田適地があった場所です。大規模稲作によって日本列島で初めて人口爆発が起こり、七萬餘戸もの超大国が出現したのです。

 これまで、日本全国の地形や気候から、最も大規模な水田適地を探してきました。その場所こそが邪馬台国です。今回からは、天然の水田適地を定量的に分析する方法を探って行きます。

古代の農業生産を数値化するのは至難の業ですね。まずは基本的な農業の歴史のおさらいから、始めてみましょう。

 日本列島における農業生産を、明確に数値化したのは豊臣秀吉による太閤検地が最初です。16世紀の事です。それ以前の農業生産については、平安時代・10世紀頃の史料があります。延喜式という古文書の中にある公出挙稲(くすいことう)という稲の貸付け制度の項目です。多少の生産高の推測はできますが、数値化といえるレベルのものではありませんでした。

 それでは3世紀の邪馬台国時代の農業生産を数値化する事はできるのでしょうか? 今回の動画から三回に分けて、邪馬台国時代の農業生産高の数値化に取り組んでいきます。

 現代でこそ日本全国、当たり前のように見られる水田稲作風景ですが、畑と違って田圃の整備は生易しいものではありません。木々の伐採から、灌漑の整備、土壌改良まで、ここに至るには大変な苦労の歴史がありました。

 1800年前の邪馬台国の時代には、鉄器が普及していなかっただけでなく、日本列島には牛や馬も存在していませんでした。せっかく水田稲作が伝来したにも拘らず、田圃を開拓・開墾して整備するなど不可能だった時代です。

 そんな時代に邪馬台国のような超大国が出現する為には、人の手を加えなくても水稲栽培が可能だった場所、すなわち広大な天然の水田適地こそが、絶対条件でした。

 これまで、土地の成り立ちや気候などの自然条件から、水田稲作に適した土地を見つけ出し、邪馬台国時代の超大国を推測してきました。そして、越前(現在の福井県北部)の平野が、古代において最大の水田適地であるとの結論に達しました。しかしこれは、あくまでも定性的な推測に過ぎませんでした。

 今回からは、古代の農業生産を定量的、すなわち数値で求める方法を探って行きます。この前段階として、日本列島に水田稲作が広がって行った歴史を順を追って辿ってみます。

 日本列島の水田稲作の最も古い歴史は、紀元前9世紀から始まります。これは佐賀県の菜畑遺跡で発見された水田遺構です。さらに紀元前5世紀頃の板付遺跡からも水田遺構が見つかっています。これは、福岡平野に存在します。これらの地域は、玄界灘に面した場所で、主に扇状地によって形成された土地ですので、広域的には水田稲作には適さない場所です。そんな中の谷底低地のような局所的な適地において、水田稲作が行われるようになりました。縄文時代から弥生時代への移行期間とも言える時期で、焼畑農業と並行して水田稲作も行われていたようです。

 この時代の水田稲作は、まだまだ初期段階でした。日本列島全域に広がって行ったわけではありません。

現代の商品開発に例えるならば、研究の段階で、大量生産には程遠い状態だったと言えます。

 また、そもそも北部九州には水田適地が少い為に、なかなか大量生産に適した土地が見つからなかった、あるいは、あっても気が付かなかったのではないかと推測します。

 さらに時代を下って、紀元前三世紀頃に、直方平野で大規模な水田稲作が始まります。

淡水湖跡の沖積平野であるこの地は、大規模な天然の水田適地です。

 これは、現代の商品開発に例えるならば、研究段階から量産試作の段階に進化した事を意味します。この地に辿り着くまでに、数百年もの時間が掛かってしまったのでした。

 直方平野では、弥生時代初期の典型土器である遠賀川式土器も開発されました。これは米を食べるのに適した土器でしたので、水田稲作文化と共に一気に日本列島全域に広がって行くことになりました。弥生文化の発祥の地と言えるのが、直方平野です。

 そしてここでようやく、大量生産・大量消費が始まり、日本列島の水田適地では集落のような集合体が生じる事になります。水稲伝来から、実に700年もの時間が掛かってしまいましたが、伝播するときには、青森県まで一気に広がったのです。 現代で例えるならば、鎌倉時代に伝来した作物が、20世紀になって突然花開いた。というイメージです。

 しかし弥生時代はまだ牛や馬が伝来しておらず、人力だけの作業でしたので、開拓開墾はままならなかったでしょう。水田稲作はもっぱら、自然条件が作り出した「水田適地」だけで行われていたと推測します。現代のように、日本全国どこへ行っても見られる水田風景は、まだまだずっと先の事です。

 当時の様子を推測すると、日本列島のほとんどが密林地帯や湿地帯でしたので、天然の水田適地といえる場所は、河川の下流域や淡水湖跡の沖積平野に限られていました。

 そんな中で、最も広くて大量生産に適した土地に人口爆発が起こり、その帰結として、「邪馬台国」という超大国が出現する事になったのです。

 弥生時代から古墳時代に入ると、近畿地方に人口爆発が起こりました。四世紀頃ですので邪馬台国よりも後の時代です。この原因は、弥生時代に存在していた河内湖や奈良湖という巨大淡水湖が干上がった事によって、広大な水田適地が広がった事によります。その結果、近畿地方が日本列島の中心地へと成長して行けたわけです。

 近畿地方が面白いのは、鉄器という農地開拓には必需品と思われる道具が、弥生時代には全く無かったにも関わらず、強大な勢力へと成長できた事です。これはすなわち、天然の水田適地という、鉄器を必要としない地形的な優位性がなせた業とも言えるでしょう。

 やがて近畿地方にも、鉄器が普及したり馬や牛が伝来したりして、開墾作業は少しばかり進んだようでしたが、まだまだでした。

 古墳時代前期から中期の近畿地方は、自然条件の優位性に胡坐をかいて、水田バブルともいえる上っ面の好景気を大いに享受してしまったようです。巨大古墳の造成などという無意味で馬鹿げた土木工事にうつつを抜かしていたのがこの時期です。

 そのために、六世紀の古墳時代後期になると、それまでの王朝が転覆し、継体天皇による王朝交代という大革命が引き起こされることになったのです。

 さらに時代を下って、飛鳥時代に入ると、大和王権の支配は日本列島全土に及び、中央集権や律令国家の体制が確立されて行きました。とくに律令政治の根幹をなしたのは、公地公民という思想が元になっており、農地の私有権を認めないという制度でした。この制度は、国家体制を作るには良かったものの、当然ながら一般庶民の働く意欲は薄れ、開拓開墾は進みませんでした。現代の共産主義国家のようなものです。その時期には牛や馬も伝来しており、水田稲作を行うには格段に便利な時代になったにも関わらず、ほとんど進化はありませんでした。この時代には、乙巳の変、大化の改新、壬申の乱、などの権力抗争が頻繁に起こっていますが、それは一般民衆の不満が爆発した事も一因だったのかも知れませんね?

 奈良時代に入ると、西暦723年に三世一身の法(さんぜいっしんのほう)が施行されます。これは、開墾した土地を一定期間私有できる制度を定めた法律です。

 さらにその20年後の743年には、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が発布されました。これは、永久的に農地を私物化できるという法律で、一般庶民の労働意欲が活発になり、大いに開墾が進みました。

 平安時代になると、荘園という名の、貴族たちによる土地の私物化が進みますが、これの先駆けとなったのが、墾田永年私財法です。

 邪馬台国から飛鳥時代・奈良時代・平安時代を経て、その後、鎌倉時代からは武家政治となりました。天皇家による中央集権制度から、封建制度という名の地方分権の政治体制になりました。これ以降、大和王権による開墾奨励策はあったものの、むしろ地方自治に任せていたきらいがあります。日本全国に散らばっていた守護や地頭という名の領主が、自主的に考えて、農地を広げて行った時代です。

 それと並行して、農地整備の技術も進化しました。

 ちなみに現代の世界の先進諸国は、日本と同じような歴史を辿っています。ヨーロッパ諸国です。いわゆる中世ヨーロッパの封建制度によって、地域ごとの自主性が培われ、近代の先進文明への礎が築かれたと言われています。

 このような地方分権の歴史があったのは、日本とヨーロッパだけですので、とても説得力がありますね。

中国や南北朝鮮・ロシアなどでは、現代でも中央集権体制ですので、なんとも頓珍漢な国ですよね?

  室町時代に進むと、さらに地方分権が進みます。これによって、全国各地の水田開拓が一気に進む事になりました。

しかし、前期には南北朝があり、後期には戦国時代があったという戦乱の時代となってしまいました。この究極の原因は、地方分権によって日本全国に農耕地が大いに広がった事だと言われています。各地の農業生産が上がった事によって、それぞれの国が豊かになったのは良いのですが、一方で我儘になって、収拾がつかなくなったというわけです。地方分権は両刃の剣だったという事ですね。

 なお、水田開拓の技術も大いに進んでいたようです。牛や馬などの強力な動力がさらに広がって、開墾が大いに進んだ事や、ため池の造成、灌漑整備の土木技術などの、現代の水田稲作には必須の技術がこの時期に確立されたと言われています。

 そんな中で、ようやく政治的に安定の時代が訪れました。豊臣秀吉の時代です。この時代に、日本で初めて農業の収穫高を定量的に測り、数値化しました。いわゆる太閤検地です。

 さらに江戸時代に入ると、徳川家康による慶長郷帳と呼ばれる検地が行われ、より正確な石高が測られました。

 農地開墾の視点から見ると、地方分権だった鎌倉時代から江戸時代までは、日本列島各地で自主的に開拓開墾が行われて、大いに田んぼが広がった時代と言えます。

 さて、日本列島の農地開拓史のアウトラインはこのようになりますが、定量的に測れる農業生産高は太閤検地からで、正確なものは江戸時代の慶長郷帳からとなってしまいます。

江戸時代はかなり開墾が進んでいた時代であり、ある程度、日本全国均一に水田稲作が行われるようになった時代でもあります。

 しかし現代の物差しでは測れない意外なデータも、そこから垣間見れます。それは古代からの天然の水田適地なればこその高い石高、不適地なればこその低い石高が、その数値に表れているのです。

 端的な事例では、狭い平地しかない越前の国の石高が異常に高く、広大な平地を有する筑前の国の石高が異常に低い事です。これは、江戸時代になってもまだ、天然の水田適地とそうでない土地との間には、米の収穫高に明らかな差が出ていた事を物語っています。この詳細は次回以降に述べる事にします。

 今回は、日本列島の発展の歴史を、農業の視点から振り返ってみました。

 邪馬台国という三世紀の超大国を考える上では、その当時の農業状況をしっかり見極めなければなりません。現代のように当たり前に水田稲作が行われていた訳ではありません。国の基は農業なり。大きな農業生産の無い土地に、大きな国家の出現はありません。それを無視して、中国史書がどうの、古事記・日本書紀がどうの、と議論したところで、机上の空論でしかないのです。

 次回は、水田開拓の歴史や農業生産力を匂わす古文書史料を基に、邪馬台国時代の国力をより具体的に洞察します。