弥生時代の農業といえば稲作ですが、天然の水田に適した土地はごく僅かでした。人工的に水田を作るにも、牛や馬は存在せず鉄器も普及していなかった時代ですので、ほとんどの地域では畑作が行われていたようです。
山間部が多い日本の地形では、山林を焼いて畑にする「焼畑農業」が一般的で、一万年前の縄文時代初期から行われていたという説もあります。
今回は、弥生農業の主流だった焼畑農業についてです。高効率の水田稲作とは比較になりませんが、多くの利点もありました。
人類が生き延びる為の栄養源は、一般に次のような進化を辿ってきました。
原始時代には、狩猟による動物性たんぱく質がメインで、植物からの栄養は木の実などのの採取に限られていました。当然ながら一ヶ所に定住する事なく、獲物を追っての移動する生活でした。
それが徐々に植物からの食糧調達が増えて行きました。最初は小さな菜園から始まり、次第に広い土地を利用した農業も行われるようになります。現代に見られるような畑作へと進化し、定住型の集落が生まれるようになりました。
日本における農業は、縄文時代前期から始まっていたとする説が有力です。
海からの収穫物、野生動物の狩猟、木の実採取、などで生業を立てていた時代ですが、やがて山菜類や、食べる事の出来た雑草、天然の穀物類を採取するようになります。
そして、種を取って計画的に植物を栽培するようになりました。単純な畑作農業です。
しかし実際に、栽培に取り組んでみると、病害虫の被害や連作障害など、多くの困難な問題に直面した事でしょう。
それらを解決する有効な手段として、草木を焼き払って、その上で作物を栽培する方法を見つけました。これが焼畑農業です。焼畑農業と聞くと、なんだか原始時代のお粗末な農業というイメージを持ってしまいます。しかし、畑作農業の中では優秀な、ちゃんと理に適った方法なのです。
弥生時代になると、この焼畑農業に水田稲作農業が加わります。
まず、焼畑農業の利点です。
1.開墾不要
畑を広げるには、乱雑に生い茂った草木を除去しなければなりません。開墾する事なく、焼き払う事で解決します。
また、耕作期間中に繁茂する強害雑草も、数年間休耕地にして、再度焼き払う事で、死滅させる事ができます。
2.耕耘(こううん)・施肥不要
作物を育てるには、畝を立ててフカフカの土にしなければなりません。草木の焼け跡の灰が、その役割を果たします。
3.病害虫の防除
病害虫は、土の中で繁殖します。草木を焼くことによる熱で、これらを死滅させます。
4.土壌改良
日本列島に多い酸性の土は、作物の栽培に適していません。草木を焼き払った後に残る灰は、中和剤や肥料となり、土壌が改良されます。
5.野生動物の防除
広域の山林には多くの野生動物が棲んでいます。山火事を起こす事で、野生動物が里地へ侵入する可能性を低下させる事ができます。
6.灌漑不要
人工的な灌漑を利用しない雨水だけに依存した農業です。
7.整地不要
水田のように、農地を真っ平らにする必要もありません。
と色々あります。おそらく焼畑の始まりは、単純だったと思います。山火事で草木が燃え尽きた跡に種を撒いてみたら、よく育った。きっかけは、その程度だったのでしょう。
草木を焼くだけですので膨大な労力を使う事もない、驚異的に「楽」な農業です。水田稲作ならば、木々を伐採し、根を掘り起こし、農地を水平に整地し、畔を作り、水を引き、水を張る、という膨大な手間がかかります。
焼畑ならば、山火事を起こすだけで済むのです。
焼畑農業は、開墾するための動力がない、化学肥料もない時代においては、とても優秀な農業形態でした。
実際に江戸時代までは、日本列島の多くの地域で焼畑農業が行われていたようです。
しかしながら、水田稲作と比較してみると、全くお話にならない低いレベルの農業です。一言でいうと、人口扶養力が低いのです。単位面積当たりで、水田稲作で養える人口を10人とすれば、焼畑農業で養える人口は一人か二人程度です。
日本における農業が、収穫効率が非常に高い水田稲作に移行したのは必然だったのです。
これは、以前の動画「古代の超大国 畑作では無理」、「邪馬台国には水稲が必須」で述べた通りです。要は、
・単位面積当たりで得られる栄養価は、水稲の方がはるかに高い。
・畑作では連作障害が起こり、毎年、同じ場所で同じ作物を作る事は出来ない。
・同じ場所で栽培を続けた場合には、
土の栄養分が欠乏する
土が酸性土壌となる
雑草が繁茂する
病害虫の被害が大きくなる
など、欠点だらけです。そのため、焼畑農業で使用できる農地は、一年か二年程度で、そのあとは別の場所の草木を焼き払って農地を作らなければなりません。元々あった農地は、数年間休ませて、自然に任せて草木を繁茂させて、土壌を復元させる必要があります。
必然的に、焼畑農業で賄える人口は、ごくわずかなものとなります。すなわち、古代における大きな国が出現できるだけの人口扶養力は持ちえないという事です。
江戸時代まで行われていた焼畑農業は、水田稲作には不向きな山間部に限られていました。有名なところでは、四国の山間部での野焼きがあります。そういう風習が残っていたのは、水田適地が少なかったという理由からです。
この図は、日本列島における土壌の割合です。
国土の31%は黒ボク土、30%は褐色森林土、14%が低地土です。
水田稲作に最適なのは、水はけの悪い低地土です。
一方、焼畑農業に適する土壌は、作物の種類にもよりますが、ほぼ「水はけの良い土」となります。
水田稲作には最適な、「低地土」では育ちません。水はけが悪すぎて、根腐れ病を起こしてしまいます。
日本列島の国土の31%は黒ボク土、30%は褐色森林土です。以前の動画、「稲作の敵 黒ボク土」で述べましたように、これらは水田稲作には不向きですが、畑作栽培には適しています。つまり、日本の60%以上の土地では、焼畑農業に適しているという事です。
邪馬台国があった弥生時代に目を向けてみましょう。
現代のような重機どころか、牛も馬もいなかった時代です。日本列島のほとんどは、草木の生い茂る密林地帯でしたが、開拓・開墾する術はなく、ほとんどの地域で焼畑農業が行われていた事でしょう。
水田稲作が普及し始めた時代とは言っても、水田という非常に手間のかかる農地を人工的に増やしていくのは容易ではありませんでした。天然の水田適地はせいぜい、河川の下流域の湿地帯や、谷底低地、そして淡水湖跡の沖積平野くらいでした。そういう僅かな場所に、弥生時代の一極集中型の超大国が生まれたのです。
九州や四国のような、水田適地の少ない地域では、江戸時代まで焼畑農業が行われていた事は、よく知られています。
ましてや邪馬台国という七万戸・人口にして20万人以上もの超大国が出現するには、これらの地域では無理です。
焼畑という畑作栽培の中では有効な技術ですが、水田稲作からは大きく見劣りする原始的な農業です。邪馬台国の場所を考える上でも、やはり、「天然の水田適地」が最も重要でしょう。
現代でも、南米や東南アジアでは焼畑農業は続けられています。密林地帯を手っ取り早く農地に変えるには、最も良い方法だからです。日本でも、山間部の水田に適さない場所では、「焼畑農業をやりたい」というのが本音でしょう。
ただし、現代は法律的な縛りがありますので、勝手に野焼きをやれば犯罪になってしまいます。
縄文時代から江戸時代まで続いた日本の焼畑農業ですが、日本人の胃袋を満たしてきたのは、やはり水田稲作による「米」です。弥生時代から普及した水田稲作こそが、日本人の礎であると再認識しました。