天孫降臨から神武東征 天皇の歴史=藤原氏の歴史

 こんにちは、八俣遠呂智です。

 邪馬台国はなぜ歴史から消されたのでしょうか?

その理由は、記紀編纂時の権力者・藤原氏一族の思惑を抜きには語れません。では藤原氏とは一体なにもの?

前回は、鹿島神宮の宮司説から見える、藤原氏一族のしたたかさを紹介しました。今回は、私の説を紹介します。

これは、初代・神武天皇の歴史とも密接につながる藤原氏の歴史です。簡単に言えば、天皇家の歴史こそ藤原氏の歴史であり、藤原氏の歴史こそ天皇家の歴史だという事です。

 前回は、藤原氏一族が関東地方の常陸の国・鹿島神宮の宮司だったという説を紹介しました。これは、平安時代に大鏡という歴史書を使って捏造された系譜でしょう。藤原氏一族も、あえてこれを否定しなかった、あるいは自ら鹿島神宮が先祖だったと主張していた裏には、平安時代の政治状況が強く関係していたと推測しました。

 平安時代は、関東地方が強力な存在になった時代です。それまで湿地帯が多かった常陸の国や下総の国が、徐々に水田適地へと変貌して、農業生産力が上昇し人口爆破が起こりました。この農業生産を背景に、平将門のような強力な豪族が出現して、ヤマト王権に反抗するにようになって行きました。

 藤原氏にとっては、平将門の乱こそ鎮圧する事ができたものの、いつまた再び関東地方で反乱が起こるやも知れない、という火種を抱えた状態が続いていた訳です。そこで藤原氏が得意とする懐柔作戦の一環として、自らの先祖を鹿島神宮の宮司とし、奈良の春日大社には鹿島神宮と香取神宮を最上位に祀ったという訳です。関東地方への忖度だったという事です。

 なお、平安時代の後には源頼朝による武家政治が始まりますが、政治の中心は関東地方に置きました。その頃になると、関東地方の豊饒な農業生産という利権を無視できなくなっていたのは、自明でしょう。

 では再度、藤原氏の系譜が記されている日本書紀に戻ります。

中臣鎌足から遡って、10代前の中臣烏賊津 (なかとみのいかつ)まで行きつくのですが、なんの実績も個性もない輩ばかりです。中臣烏賊津 (なかとみのいかつ)は、卑弥呼のモデルとされる神功皇后と同じ時代の人物なのですが、近畿地方にじっとしていただけで、何の武勇伝もありません。

 一方で、蘇我氏の先祖とされる武内宿祢も同じ時代なのですが、熊襲征伐や三韓征伐などで多くの武勇伝がある人物です。さらに遡ると、第八代・孝元天皇が先祖となります。また、武内宿祢の後の系譜を見ても、直系血族では蘇我稲目、蘇我馬子、蘇我蝦夷、傍系血族では聖徳太子などの、有能な人物が数多く存在しています。

 日本書紀の中では、蘇我入鹿をさんざん悪者扱いしているにも関わらず、なんとも不思議な気がします。蘇我氏は超名門の出自、藤原氏はどこの馬の骨とも分からない輩、という扱いなのです。

 この系譜を眺めていて、一点だけ藤原氏に優位な点があります。それは、神話の中の八百万の神の一人・天児屋命(あめのこやねのみこと)が始祖となっている点です。

 蘇我氏の出自を遡ると、第八代・孝元天皇という皇族になりますが、藤原氏はこれよりも一つ上の神様が先祖だったという事です。この一点だけで藤原氏の溜飲が下がったのかも知れません。

 藤原氏の祖先の神様・天児屋命(あめのこやねのみこと)について、簡単に紹介します。

なお、日本書紀には詳細が記されていないので、古事記からの引用です。

 天照大神の岩戸隠れの際に、この天児屋命が岩戸の前で祝詞を唱えました。下界の騒がしい様子が気になった天照大御神は、岩戸を少し開けてしまいました。そのすきを逃さず、差し出した神が天児屋命です。

 さらに、天照大神の曾孫の瓊瓊杵尊が、日向の国・高千穂に天孫降臨する際に随伴した、ともされています。

このように、ほかの氏族の祖先はあくまでも人間であるのに対して、藤原氏の場合には皇祖神である天照大神の頃からそばに寄り添っていた重要な神様だった、という事になります。

 藤原氏にとっては、人間界の系譜など取るに足りないもので、自分の祖先は神様であって、天皇と同じくらいの立場だったという自負があったのではないでしょうか? もちろん、この神様系譜も藤原氏が自らでっち上げたものでしょうが?

 藤原氏の祖先が本当に天児屋命だったとした場合、藤原氏の地盤を推測する手掛かりが見えてきます。

なぜ天孫降臨の地が、日向の国だったのか? 日向三代から神武東征へと続く天皇家の系譜も、日向の国だったのか?

その答えが、藤原氏の地盤が日向だったからではないか? と考えるのに無理はないでしょう。

 そもそも日向の国は、不毛の地とも言える場所です。地形的に、河川による沖積平野ですので、古代に超大国になるには、大がかりな開拓開墾が必要な土地ですし、土質は火山の影響による黒ボク土地帯ですので、そもそも水田稲作には不向きです。天孫降臨から神武東征へと続く流れからは、日向の国はとても強力な存在でなければならないはずですが、その根拠となる農業生産がとてもショボい地域なのです。

 実際に、江戸時代初期・1604年の慶長郷帳では、日向の石高はたったの29万石しかありません。これは、広大な平野を有する地域としては、異常に貧弱な農業生産力です。このような場所が、江戸時代よりも1500年以上も前に、近畿地方に攻め上れるだけの強力な国だったとは、有り得ないでしょう。

 藤原氏の出自は、天児屋命(あめのこやねのみこと)という神様。ではなくて、日向の国の人物だったと想像します。そして、天孫降臨から日向三代までを高千穂で過ごし、神武東征という物語の如く、近畿地方へ移動してきた集団だったのではないでしょうか?

 以前の動画で考察しましたように、日向の国は馬の繁殖適地です。日向という人口扶養力の無い土地で、強力な勢力に成り得たのは、馬という強力な武器があったからでしょう。そして、馬の繁殖に成功した後の六世紀頃に近畿地方にやって来た騎馬集団が、藤原氏一族だったのです。また、この神武東征が唯一の藤原氏一族の武勇伝、という事になります。ただし、本当に瀬戸内海を渡って近畿地方へやって来た、そして近畿地方を征服したのならば、何らかの考古学的な史料があってしかるべきです。それだけ大がかりな戦争があったならば当然でしょう。ところがそんなものは一切ありません。考古学的な根拠が無い以上、神武東征というのは藤原氏一族を美化した歴史物語という事です。

 仮に本当に日向の国から近畿地方へ移動したのならば、馬の伝来と繁殖期間を考慮すると、6世紀頃となります。そして、七世紀の飛鳥時代には、それまで蘇我氏によって書き溜められた歴史書を全て焼き払いました。八世紀の奈良時代には、古事記や日本書紀の中に、自らの出自を盛り込みました。瓊瓊杵尊から神武天皇に至る系譜は、藤原氏一族に語り継がれていた物語をそっくりそのまま、天皇家のものとして記紀に著わしたわけです。当時の権力者なればこそ、捏造できた日本の歴史という事です。

 天皇家は藤原氏、藤原氏は天皇家である。と私は考えます。

 いかがでしたか?

藤原氏の祖先が日向の国からやって来たとしても、ヤマト王権の中での中臣氏の地位は低いものでした。中臣鎌足という七世紀の人物まで待つことになります。これも不思議ですね?

 どうやら藤原氏一族(中臣氏一族)は、失敗ばかり繰り返した「しょうもない一族」だったようです。もちろんそんなことは、記紀には記されていませんが、それを類推する根拠があります。

 次回は、そんな藤原氏の冷遇時代と、蘇我氏を亡ぼして邪馬台国を抹消した経緯を推測します。