翡翠の加工場として発見された、越前(福井県)の林・藤島遺跡。
そこは、鉄器工具を使った当時の超最先端工場でした。発掘された鉄器は二千点もあり、この遺跡だけで、邪馬台国時代の鉄器出土数の日本一となりました。それ以前は、北部九州や出雲地方での出土が多く、朝鮮製の剣や鏃などの戦闘用・権力誇示用の鉄器でした。越前での出土は、実用的な鉄器が多く、鍛冶場で自ら鉄器工具の製作を行っていました。日本の鉄器時代突入の先駆けの地域だったと言えます。
越前への鉄器流入経路を探ると、北部九州を介さずに、朝鮮北東部から直接だったと推測されます。理由は、出雲地方と同じように、北朝鮮に起源を持つ墳丘墓との関係です。
四隅突出型墳丘墓という弥生時代後期に見られる墳丘墓があります。これは、出雲(山陰地方)と高志(北陸地方)にだけ存在します。この墳丘墓の起源は、朝鮮の北東部にあります。この地域は、豊富な鉄鉱石の産地で、そこに住んでいた豪族が、ある理由で、出雲や高志にやって来たと思われます。
ある理由とは、北部朝鮮の騎馬民族・高句麗の南下です。
高句麗が南下する前に、北部朝鮮に住んでいた民族は、四隅突出型墳丘墓の原型の墳墓を持ち、同時に鉄鉱石の産地でもありました。この墳丘墓の分布域と、豊富な鉄鉱石の産地は重なっています。
高句麗は、西暦一世紀頃から朝鮮半島を南下して勢力を拡大し、五世紀頃には朝鮮半島の八割を支配した強力な騎馬民族です。製鉄技術を持っていた対抗勢力の一部は、ボートピープルとなりました。必然的に、リマン海流、対馬海流によって、出雲、高志に流れ着いたのです。
出雲や高志には、朝鮮語由来の地名が多く残っています。これは、九州を介さずに、朝鮮の文化が直接流入していた証拠でしょう。
典型的な例は、石川県小松市です。多数の北朝鮮式のオンドル遺構が発見されており、「こまつ」という地名の由来は「高麗の津」という説が有力視されています。
いずれにしても、高志の国は朝鮮半島からの影響が、かなり大きかった事が推察されます。
なお、出雲と高志の四隅突出型墳丘墓には、明確な違いがあります。出雲式には貼石があり、高志式には貼石がありません。はっきりとした違いがある事から、北朝鮮の異なる豪族が流れ着いたのでしょう。
弥生時代の製鉄所は、現在のところ日本全国どこにも見つかっていません。見つかっているのは、鉄の加工場、すなわち鍛冶場だけです。
越前で見つかった邪馬台国時代の鍛冶場は、翡翠工場の林・藤島遺跡だけでなく、かつて「金津」と呼ばれた地域周辺に多数発見されています。その地名の通り、金属の港だったのでしょう。また、高句麗と縁の深い、石川県小松市(現在は加賀の国)にも点在しています。
最後に、弥生時代後期の鉄器出土数の推移を示します。
北部九州から、対馬海流に沿うように西へと推移し、三世紀前半の卑弥呼の時代には、越前からの出土数が最多となっております。
近畿地方は、五世紀に入らないと、まとまった数の鉄器が出土されていません。近畿地方は、鉄器後進国だった事がわかります。
このように、邪馬台国時代(弥生時代末期)において、越前は、明らかに強大な力を持った地域でした。鉄器工具を用いた先進的な工房で、翡翠の加工を行っていました。そして、翡翠を輸出して、朝鮮や中国から鉄などの先進の物品を、輸入していたのでしょう。
これまで越前が、
1.巨大な淡水湖跡の大規模農業地帯
2.翡翠の最先端加工地
3.鉄器の流入・実務利用が早かった
という事実を示してきました。
この事実だけで、福井平野(越前)が邪馬台国だったと、結論付けるつもりはありません。
ただ弥生時代末期に、越前が超大国だったのは間違いないという事です。