こんにちは、八俣遠呂智です。
近畿シリーズの4回目。考古学的な視点から、弥生時代を考察します。ここは多彩な遺跡群が発見されていますので、主なところを紹介します。気になるのは、やはり邪馬台国の比定地として有名な奈良県の纏向遺跡ですね?
マスコミにもてはやされて、注目度ナンバーワンですが、詳しく調べて行くとそれほどでもありません。
今回は、近畿地方の弥生遺跡の概要と、纏向遺跡の位置づけを考察します。
近畿地方は、四世紀の古墳時代から日本の中心になった場所です。大規模な前方後円墳が多数存在している事がそれを物語っています。強力な王族がこの地に複数乱立していた様子が窺えます。
しかしその豪華さに比べると、一つ前の弥生時代にはさしたる遺跡もなく、比較的こじんまりしています。
ではまず、近畿地方の主な弥生遺跡をピックアップします。
大和の国、
纏向遺跡、唐子・鍵遺跡。
河内の国、
西ノ辻遺跡、鬼虎川遺跡。
摂津の国、
安満遺跡、安満宮山古墳。
和泉の国、
池上・曽根遺跡 和泉黄金塚古墳。
近江の国、
伊勢遺跡。
淡路の国、
五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡、舟木遺跡。
などがあります。
それぞれの遺跡の詳細については、地域ごとに別の機会に紹介するとします。今回は纏向遺跡に焦点を絞り、これが出現した理由を考察して行きます。
纏向遺跡は奈良盆地の南東部に位置しており、飛鳥時代の中心地にほど近い場所です。言わずと知れた邪馬台国畿内説の本丸です。畿内説を唱える歴史研究家たちにとっては心の拠り所のような存在で、2010年頃の大型建物跡の発見以来、俄然注目を集めている遺跡です。
様々な理由から、私は畿内説支持しませんし、纏向遺跡がその中心地だったとは一切考えておりません。
遺跡の内容や、畿内説を認めない理由を示す前に、最初に私の結論を述べておきます。
「纏向遺跡は、計画倒れの計画都市だった。」
しかもそれを計画したのは邪馬台国ではなく、狗奴国でした。
まず、日本列島における計画都市の歴史から振り返ります。最も古いものは、七世紀の飛鳥時代の藤原京ですが、まだまだ小規模なものでした。その後、八世紀の奈良時代に平城京という大規模な都市国家が建設されました。奈良盆地北部の扇状地に位置しています。農業生産の盛んな地域から切り離され、日本列島全域を管理する為の行政機関や、各地の豪族たちの居住場所、などが整備された画期的な都市国家の出現でした。一般民衆の間では商業活動も始まり、いよいよ日本列島の都としての体裁が整ったのが、この平城京です。
飛鳥時代の藤原京までは、奈良盆地南部が大和王権の中心地であり、天然の水田適地という農業生産活動に密接に結び付いている場所でした。
このような平城京が建設される500年も前の弥生時代末期に計画された大規模都市国家が、纏向遺跡です。地理的には、奈良盆地南部に位置しており、水田適地に立地しているように思われがちですが、そうではありません。南東部の大和川が奈良盆地に流れ込む扇状地の上に立地しています。水はけの良い土地ですので水田稲作には適さない為に、計画都市として活用されたのです。
この計画都市を作った目的は、新たな農地開拓を管理する為の窓口です。明治時代の屯田兵・北海道開拓の管理窓口だった札幌市、アメリカ合衆国開拓時代の窓口だったニューヨークのエリス島のような存在です。
纏向遺跡がある場所はその当時、古代の湖・奈良湖が存在していた沿岸地域です。この湖水が引きさえすれば、広大な水田適地が出現し、大きな国家が成立出来る下地があったのです。まだまだ大きな人口を賄えるだけの農業生産はありませんでしたが、これから世界が広がって行くような場所でした。
奈良湖の水は、西側の生駒山地と金剛山地との間を抜ける大和川から排出されますので、水田が広がり始めるとすれば東側の沿岸地域、すなわち纏向遺跡の場所になります。
広大な水田が期待できるこの地に計画都市を作る事によって、巨大な政治的中心地を作る目論見があったのでしょう。
大型建物跡や、大和川に通じる水路も設けて交通網の整備を図った痕跡もあり、インフラ整備が進んでいたようです。
そのような場所だったからこそ、近畿地方からだけでなく周辺地域からも多くの人材が集まって来たのです。実際に纏向遺跡から出土する土器の15%は近畿地方以外からのものです。
しかし残念ながらこの計画都市は、あえなく頓挫してしまいました。
纏向遺跡からは、水田遺構は全く発見されていませんし、農耕具もほとんど出土していません。見つかっているのは、土木工事用の工具が圧倒的に多く、都市国家の建設途中だった事が分かります。
ではなぜ計画が頓挫してしまったのでしょうか?
それは、現代にも通じる事です。新たな計画に対しては、既得権益を持つものは必ず反対します。すなわち、利権のぶつかり合いによって、纏向の都市計画は白紙に戻されたのです。
弥生時代末期のこの地域は、奈良湖だけでなく、河内湖もまだ存在していました。それぞれの湖の周辺では水田が広がり始めて、大きな勢力へと成長している段階でした。河内湖周辺地域にとっては、上流の奈良湖をダムのような役割を持たせて水量の調整を行えましたので、理想的な水田適地だったのです。
すると、奈良湖の水が無くなって既得権益を失うのは、どちらでしょうか?
申し上げるまでもありませんね? 奈良湖の水を河内湖に流せば、その湖岸にあった水田地帯は水没してしまいます。水没を免れたとしても、それまでのダムとしての奈良湖が無くなってしまうのは、大きな損失です。
当然ながら河内湖周辺の豪族たちは、大反対した事でしょう。もしかすると河内湖と奈良湖の間で、戦争が起こった可能性もありますね?
いずれにしても、纏向の都市計画は頓挫してしまいました。
それを証明するように、纏向遺跡は四世紀の古墳時代に入ると、突如として姿を消してしまいます。一方、古墳時代に隆盛を極めたのは、河内湖の方です。大仙古墳をはじめとする巨大古墳群は、河内平野の西側の上町台地に作られているのが、それを物語っています。
もちろん纏向周辺にも、その後多くの古墳は作られていますが、規模は遥かに小さなものでした。
いかがでしたか?
纏向遺跡を邪馬台国と比定するには、人口規模の問題もあります。七万余戸という人口を賄えるだけの水田地帯は、その当時は、まだ広がっていませんでした。奈良湖の水が引いて水田地帯となったのは、古墳時代後期の六世紀頃の事です。
その時代にようやくヤマト王権が奈良盆地南部に誕生したと考えられます。丁度、実在性の確実な最古の天皇・継体天皇が、奈良盆地南部に都を移した時代です。