こんにちは、八俣遠呂智です。
近畿シリーズ総集編の3回目。近畿地方は、飛鳥時代以降は紛れもなく日本の中心地である事に異論を挟む人はいないでしょう。ではそれ以前は? となるとかなり微妙です。巨大古墳が日本列島全域に広がったから、すでにヤマト王権は成立していた。などと安直で短絡的な考えを持つ研究者も多いようです。しかし、畿内に大陸文明が入って来たのは、6世紀になってからという事実に目を向けなければなりません。今回は、弥生時代から続いていた日本列島の勢力構図を眺めながら、そのキーマンと言えるのが「琵琶湖」だった事を示して行きます。
前回までの2回の総集編で、それぞれ考古学的、文献史学的な視点から弥生時代の近畿地方を俯瞰してみました。
すると、同じ近畿地方ではあっても、奈良盆地や河内平野などの太平洋側地域と、但馬・丹後・丹波や若狭湾および
琵琶湖北部地域の北近江とは、明らかに異なる文化圏であり、異なる勢力が存在していた姿が浮かび上がりました。
魏志倭人伝に記されている女王國は日本海側。敵対していた狗奴国は太平洋側。という構図が描けます。
文献史学的には、卑弥呼のモデルとされる神功皇后が敦賀に都を置いていたり、越前の大王・継体天皇の出生地が高嶋だったりと、近畿地方とは明らかに異なる勢力の存在が見えてきます。
また、文化的な相違点としては、鉄器の出土状況が顕著なものです。よく知られているように、邪馬台国時代の鉄器の出土数では、越前の国が日本一で、出土量では丹後の国が日本一です。それに比べて、太平洋側の奈良盆地や河内平野からの出土はほとんどありません。
これは日本列島の構造上、仕方のない事です。鉄の産地である中国大陸の高句麗や新羅から船を漕ぎ出した場合、リマン海流や対馬海流に流されて、丹後半島や越前海岸に辿り着きます。それらの地で鉄器生産が盛んになったのは必然的です。
一方、太平洋側は中国大陸から見れば内陸部の奥地です。日本列島という険しい山々が連なる土地が、文化の流入を阻止していました。日本海側で盛んになった鉄器生産という最先端技術は、そう簡単には太平洋側に流れ出す事はなかったのです。
そんな中で、琵琶湖という船を使った移動が可能な場所は、日本海と太平洋を繋ぐ上で、最も重要だった事は自明でしょう。
中国大陸から近畿地方の太平洋側へ文化が伝播するルートは、もちろん
琵琶湖ルートだけではありません。
・北部九州から瀬戸内海を渡る海のルート
・出雲や伯耆の国から中国山地を越える陸のルート
・但馬や丹後の国から中国山地を越える陸のルート
そして、
・若狭湾から琵琶湖へ抜けて船を使うルートです。
この中で、これまで何度も指摘しています通り、瀬戸内海を渡るルートは論外です。これは有り得ません。
中国山地を越える陸のルートは幾つも存在し、越えなければならない峠は標高150メートル以下という比較的容易な陸路です。これらのルートを使った文化の伝播は、吉備の国の弥生文化や、淡路島の五斗長垣内遺跡などに見られます。しかし、所詮は獣道しか無かった時代の話です。頻繁に往来があったわけではありません。
文化の伝播ルートで主役だったのは、やはり船を使った行路であり琵琶湖を使ったルートでした。
これは、弥生時代の鉄器の出土状況だけでなく、その後の古墳時代、飛鳥時代、奈良時代にも顕著に見られます。
日本列島の裏側の奥地で、文明の遅れた後進地域だった近畿地方に、日本海側の先進文明が流れ込んで来たのは、紛れもなく若狭湾から琵琶湖を結んだルートです。他のルートとは比較にならない豊富な遺跡群がそれを物語っています。
前回までの近畿シリーズの中で、琵琶湖沿岸地域である近江の国の存在の大きさに気づかされたのですが、それは、考古学や文献史学、および文化の伝来ルート、という観点からだけではありません。さらに重要で、古代国家の出現を考える上で最も大切な点が、近江の国には存在していたのです。それは、農業生産力です。
近江の国の農業生産力を論ずる前に、これまでの近畿地方に対する私の見方を簡単にまとめます。
流通網が発達しておらず、地産地消が当たり前だった古代に於いては、高い農業生産力がある土地にこそ、強力な勢力が生まれます。そんな視点から、これまで日本列島全域を調査し、越前の国(現在の福井県北部地域)が古代に於いて最も農業生産力がある場所だと分かりました。これは天然の水田適地になりうる巨大な淡水湖跡という地形的な理由だけでなく、江戸時代の石高推移からの傾向でも、まず間違いないところです。弥生時代に日本列島で最も強力だった場所がそこであり、魏志倭人伝に記されている七万餘戸の超大国・邪馬台国がそこにあったとの結論に至りました。そして、邪馬台国に敵対していた狗奴国については、農業生産力に劣る近畿地方。特に河内平野や奈良盆地といった、同じようにかつて巨大淡水湖があって水田適地の場所だと見ていました。
ところが江戸時代の石高推移からの傾向では、ライバルとしてふさわしくありませんでした。越前とは明らかに劣っていたのです。
このグラフを使って、江戸時代260年間の石高推移から、弥生時代の石高を推測して行きます。河内の国、大和の国は、邪馬台国があった三世紀頃は、二つ合わせても僅かに10万石程度でした。一方の越前の国は、このように45万石ほどありました。一石は人間一人を養う農業生産力ですで、この時代は畿内には10万人、越前には45万人がいた事になります。これでは力の差があり過ぎですね。邪馬台国が越前だとした場合、ライバル狗奴国を畿内だとしてしまってはあまりにも不釣り合いです。しかし、他に選択肢が無かったのでやむを得ず大和や河内といった弱小地域がそれであると比定してきました。
今回、近江の国と出会えた事で、この矛盾が解消されました。近江の国こそが大和や河内を含めた畿内の中心地であり、狗奴国だったのです。
このグラフに、近江の国の石高推移を重ねます。すると、三世紀頃の石高は45万石ほどです。河内や大和を大きく上回り、越前とは対等な関係になります。
もちろんこのデータは推測に過ぎません。しかし、それでも「石高」という明確な数値を元にした推移傾向からは開拓開墾状況を判断できますので、古代の農業生産力を洞察するには十分です。
これによって邪馬台国と狗奴国という、弥生時代の超大国の存在が明確になったと言えるでしょう。
なお、これまでの考古学的・文献史学的な見地からも、同じような傾向が見られていました。広域的には日本海沿岸地域を地盤とする女王國、近畿地方を地盤とする狗奴国。局地的には、琵琶湖の北部地域が女王國、南部地域は狗奴国であるとなります。
すると、豊饒な農業生産を上げられる琵琶湖沿岸地域の土地の奪い合いという、両者の対立が繰り広げられたのではないのか? という推論に至りました。
さらに気象条件の影響もあったのではないか? と思います。それは、日本海側は冬の間、雪に閉ざされてしまいます。太平洋側のような冬場の晴天は垂涎の的だったのではないでしょうか?
4世紀~5世紀の畿内の様子を見ても分かる通り、河内平野や奈良盆地では無意味な巨大古墳の造成が行われていました。農業の収穫を終えた晩秋から冬に掛けての時期に晴天の続く地域なればこそです。日本海側ではそうはいきません。農閑期は雪が降るなど悪天候が続きますので、土木工事は不可能です。
そんな気象条件の格差を羨んで、日本海側から太平洋側へ侵略の触手が伸びた? そんな風に私は考えます。
つまり、邪馬台国こそが狗奴国を征服しようと乗り出した侵略者であり、戦いの非は、邪馬台国にあり。という事です。
そんな邪馬台国と狗奴国との戦いが終結したのが、6世紀でした。それは大王・継体天皇による近畿地方征服です。
継体天皇の勢力は、邪馬台国時代から続いていた北部九州から北陸地方に掛けての日本海地域だけでなく、東海地方も味方にしました。尾張氏の娘が継体天皇に嫁ぎ、姻戚関係を結んでいたからです。これによって、日本列島の大部分が一つに纏まった事になります。
そして継体天皇は磐余玉穂宮という都を置きました。これが奈良盆地に初めてヤマト王権が誕生した瞬間でした。
近畿地方の発展を考える上では、この邪馬台国による狗奴国の侵略・征服は、とても価値のあるものでした。
それ以前の畿内は、巨大古墳の造成にうつつを抜かして、閉鎖的で唯我独尊の後進地域でした。日本海勢力に征服された事によって、中国大陸の進んだ先進文明が湯水のように流れ込で来たのです。もちろん琵琶湖を通ってです。
学問という概念すら無かった畿内に、漢字という文字や五経博士という人材、さらには仏教という新しい宗教までも入って来たりしたのです。「古代の文明開化」とも言える時代に近畿地方は突入しました。継体天皇の曾孫である聖徳太子の時代には、日本列島はほぼ全域を掌握し、中央集権・律令国家体制へと繋がって行ったのでした。
いかがでしたか?
何度も述べている事ですが、近畿地方へ最先端文明が伝播したのは、中国大陸から棒高跳びのように入って来た訳ではありません。倭国の属国だった朝鮮半島の百済に伝播し、さらに日本海沿岸各地へ伝播し、そこからようやく畿内へと入って行ったのです。その窓口だったのが若狭湾であり、琵琶湖だったという事です。決して近畿地方が独自に文明を切り開いた訳ではありません。
今回までの近畿シリーズでは、琵琶湖という重要な存在に改めて気づかされました。
前方後円墳の起源は近畿ではありません
近畿地方の古代史を考古学的に考えると、青銅器と前方後円墳に注目する方が多いのではないでしょうか?
確かに弥生時代の銅鐸なんかは近畿地方からの出土が多いですし、その後の四世紀に入ってからは銅鏡の出土が多いです。1970年代、今から50年ほど前には、こんな地図を使って、九州は銅剣文化、近畿は銅鐸文化、なんて事を言っていましたし、確か中学校の教科書にも書いてあったような記憶があります。その頃丁度私は中学生でしたので覚えています。 あま、今となっては青銅器で日本列島の文化を語る、なんてのは笑い話になってしまいましたけれども。
青銅器なんかよりも、巨大古墳を根拠に、近畿地方の古代史を語る人は多いですね。
前方後円墳が四世紀頃から日本全国に広がって行ったので、奈良盆地のヤマト王権の支配が日本全国に及んだ。なんて事を言っています。一見もっともらしく聞こえますけれども、根拠として希薄ですね。
そもそも前方後円墳は三世紀頃に日本海側で作られ始めたものです。平地型の巨大古墳になったのは、箸墓古墳の四世紀頃が最初です。とすると、日本海勢力の支配が奈良盆地にまで及んできた、という事になりますよね?
まあこの辺になると、どちらを主人公にするかによって、見方も180度変わってきますので、断言できる事ではありません。
どうしても近畿地方が神代の昔から日本の中心地だった、という先入観が誰しもあると思います。けれども、近畿は日本列島の奥深い場所ですので、冷静に日本列島の全体像を見て行く事が大切だと思います。