こんにちは、八俣遠呂智です。
近畿シリーズの21回目。琵琶湖のある近江の国は、伊勢遺跡という特異な弥生遺跡だけでなく、農業生産力も強力でした。これは邪馬台国・越前にも匹敵する国力があった事を物語ります。近江の農業の源泉は日本一の巨大淡水湖の水が引いたからでしょうか? いやそれとは別な所に理由がありそうです。今回は、近江の国が日本有数の穀倉地帯であった事と、その要因を追究して、弥生時代のこの地の様子を考察します。
近江の国が農業大国だった事を示します。農業生産力を数値化したものは、豊臣秀吉による太閤検地が最初ですので、近世のデータからの推測となります。正確な農業生産力は、江戸時代に入ってからの石高帳が正確なものとされていますので、これを用います。
まず、古墳時代の中心地だった河内の国、および飛鳥時代に中心地となった大和の国は、江戸時代260年間の石高推移は、このようになります。邪馬台国九州説の本丸である筑後の国は、このようになります。現代の農業大国・越後の国は、このようになります。そして今回の主題である近江の国はこのようになります。
江戸時代初期の近江の国は、日本列島で最も大きな農業生産力がありました。突出しています。ちょっと意外ですよね? これは、京都という巨大な米の消費地が近くにあった事や、戦国時代に織田信長、明智光秀、羽柴秀吉が居城を構えた場所ですので大いに開拓開墾がなされた事も考えられます。ただし、江戸時代260年間の石高推移を見ると、ほとんど変わっていない事から、この地が天然の水田適地であり、古来よりずっと強力な農業生産があった事が窺い知れます。
江戸時代の石高のデータだけでは、古代の農業生産力は分かりません。そこで、これらの石高推移が、弥生時代からずっと同じペースで拡大してきたと仮定します。すると、それぞれ次のようになります。
越後の国・新潟県は、江戸時代に大いに干拓工事が行われて穀倉地帯となった場所ですので、それ以前にはほとんど農業生産がありませんでした。また、邪馬台国九州説の本丸である筑後の国は、古代にはほとんどが有明海の底でしたので、これもまたほとんど農業生産がありませんでした。九州説は、まず成り立ちません。
一方で、河内の国や大和の国は、古代に於いて僅かながらも農業生産がありました。これは、巨大淡水湖跡地という天然の水田適地だったからで、なんら不思議な事はありません。弥生時代こそ生産力はなかったものの、その後の古墳時代や飛鳥時代へと続く近畿地方が日本列島に中心地になった様子が、このグラフから見て取れます。
そして近江の国です。これはすごいですね。江戸時代初期だけでなく、古代においてもダントツです。
もちろん、このグラフは単純な一次方程式を仮定したものですので、実際にこのような推移だったとは言えません。しかしながら、天然の水田適地とそうでない場所との違いは明確に現れていますよね?
ちなみに、邪馬台国・越前の石高推移は、このようになります。越前と近江とはほとんど同じ高い石高となりますね?
弥生時代末期に強力なライバル関係にあった邪馬台国と狗奴国。近江の国が狗奴国の中心地だったとすれば、越前と隣り合っているだけでなく、同じ程度の国力があり、敵対していたのも納得が行きます。
では、定性的に近江の国が巨大な農業大国になった理由を示します。二つの根拠があります。
一つには、琵琶湖という大きな淡水湖の湖岸の距離が長い事です。野洲川や安曇川という大河が流れ込む場所は、河川による沖積平野であり、天然の水田適地です。この2つの川だけでなく、多くの川が琵琶湖に注いでいますので、それらすべての下流域が同じように天然の水田適地になっていました。その為に、古代より強力な農業生産力があったのです。
もう一つは、琵琶湖周辺に点在していた淡水湖の存在です。特に西岸には明治時代まで多数の湖の存在が確認されています。昭和に入って全て干拓されてしまったので、現在では残っておりません。これらの沼地のような場所が、古代には立派な淡水湖であり、その周辺もまた天然の水田適地になっていたはずです。
弥生遺跡にしても、顕著なものはこの西岸域に集中している事から、この地域に強力な豪族が存在していた可能性が大いにあります。
ここで一つ疑問が残ります。それは、琵琶湖の水を全部抜けば、巨大な水田地帯になったのではないか? どうしてそれをしなかったのか? という疑問です。実際昭和30年代には、琵琶湖に次ぐ第二位の広さを誇った秋田県の八郎潟は、干拓工事を行って巨大な水田地帯へと変貌させています。同じような事も、琵琶湖で行えたのではないのか? と思えます。
おそらく、琵琶湖の場合は下流域に京都盆地や大阪平野があった為に、「琵琶湖の水を抜く」、などという発想が起こらなかったのでしょう。近江の国が広大な水田地帯になっても、山城の国・京都や、河内の国・摂津の国・大阪が水没してしまっては元も子もありませんからね。水利権を巡る争いは日本列島では現代でも起こっていますから、単純に話が進むような事では無さそうです。
ちなみに八郎潟の場合には、下流域は海ですので人は住んでいませんので、そんな問題は一切起こりませんでした。
なお、琵琶湖については意外かも知れませんが、結構深い湖なんです。湖面が標高90メートルなのに対して、最大の深さは100メートルを超えています。つまり、一番深い場所では、海面よりも深いという事です。湖の形状自体が、「谷」のようになっていますので、たとえ湖水を抜いたとしてもべったりと平坦な土地が現れる事はなく、傾斜状の土地になってしまうという事です。
古代の人がこれを知っていたかどうかは、疑問ですが?
話を元に戻します。
古代の国の力は農業生産力に他なりません。現代のような流通網が発達していたわけではないので、食料は地産地消でした。大きい農業生産力がある場所には、それだけ多くの人口がいた事になります。すなわち農業生産力イコール国力です。
それを考えれば、弥生時代の近畿地方の中心地は淡水湖に覆われていた奈良盆地なんかではない事は明らかでしょうし、河内平野も近江の国には敵いません。どうやら邪馬台国のライバル・狗奴国は、近江の国が最有力候補になりそうですね?
ただし気になる点があります。それは鉄器の分布状況です。
近江の国の弥生遺跡で主要な場所は、伊勢遺跡をはじめとする琵琶湖南東部の野洲川流域です。ところがこの地からは鉄器の出土はほとんどありません。また、大岩山遺跡に見られるように銅鐸の出土が多いという特徴もあります。これはまさに奈良盆地や河内平野に見られるような、典型的な近畿地方の弥生遺跡の出土状況です。
一方で、琵琶湖の北部には逆に鉄器の出土が豊富ですが、銅鐸の出土はほとんどありません。これはまさに越前や丹後という日本海地域の弥生遺跡に見られる特徴です。さらに峠一つ越えた東海地方は、畿内よりも鉄器の出土が多いのです。
どうも、近江の国は一つの勢力ではなく、琵琶湖の南部と北部で敵対していたようにも思えてきます。
いかがでしたか?
弥生時代末期の女王國は日本海沿岸地域。そして若狭湾の峠を一つ越えたところが近江の国・琵琶湖北部。そこは近畿地方への大陸文明の玄関口と言える場所。ところが弥生遺跡からの出土品の内容を精査すると、北部と南部とでは明らかな差異があります。どうやら琵琶湖の北部は先進的な日本海文化圏、南部は後進的な近畿文化圏だと考えても良さそうですね?
女王國と狗奴国との対立。それは琵琶湖の北岸と南岸との対立だった可能性があります。
琵琶湖の北側ってのは、日本海側と本当に結びつきが強いですね。神話の氏族ですが息長氏っていうのは、但馬の天日槍とか越前の都怒我阿羅斯等を祖先にしていますし、神功皇后の血族です。まあ卑弥呼のモデルですね。越前の敦賀に都を置いています。
継体天皇の出生の地もこのあたりの高島っていう場所なんですが、幼い頃に越前に引っ越した事になっています。
なんか、越前・若狭・丹後・但馬っていう日本海側の勢力と、琵琶湖の北側の勢力が一つアナノムジナという感じがします。邪馬台国か投馬国の、どちらかに属していたんでしょうね?