こんにちは、八俣遠呂智です。
近畿シリーズの15回目。これまで述べてきましたように、近畿地方の弥生時代は、奈良盆地ではなく河内平野から拓けてきました。そして、六世紀に奈良盆地南部にヤマト王権が出現するまで、河内平野が中心地でした。そこには巨大な淡水湖があり、その水が干上がった事によって広大な水田地帯へと変貌し、農業生産が急上昇して人口爆発が起こりました。今回は、土地の成り立ち上、近畿地方が日本列島の中心地へと成長できた理由を示して行きます。
近畿地方、特に奈良盆地や河内平野では、良く知られているように弥生時代の鉄器の出土がほとんどありません。また、牛や馬という強力な動力が伝播したのも5世紀以降という遅い時期でしたので、開拓開墾を行うにはかなり不利な条件の場所でした。それにも関わらず四世紀頃からは急激に拓けて行って、日本列島の中心地へと成長しました。なぜなのでしょうか?
その理由は、鉄器や牛や馬といった動力ではなく、土地の成り立ちにありました。
現代の感覚では、広い平地さえあれば水田が作られて、大きな農業生産が得られると思ってしまいがちです。ところがそんな単純な話であれば、関東平野や濃尾平野、さらには九州の筑紫平野であっても、古代に大きな農業生産があり、強力な勢力が存在していた事になってしまいます。しかしそうはなりませんでした。
平地の面積規模だけでは、近畿地方が日本の中心地となった根拠にはなりません。
では、近畿地方の何が他の地域と異なったのでしょうか?
今回は河内平野を例に、土地の成り立ちを示して、近畿が他の地域とは明らかに異なる点を示して行きます。
河内平野や奈良盆地にはかつて巨大な淡水湖が存在していました。その存在が、関東平野、濃尾平野、筑紫平野とは明らかに異なる条件でした。
巨大な淡水湖が存在していた場所は、その水が引きさえすれば広大な天然の水田適地となるのです。分かりやすい例が、新潟平野です。現代において、ここは言わずと知れた巨大な水田稲作地帯です。ところが江戸時代以前には、淡水湖というか沼地のような、全く使い物にならない土地でした。まさに、新潟の「潟」という文字がそれを象徴しています。しかし江戸時代260年間で淡水湖の水を抜き取り、広大な水田稲作地帯へと変貌させたのでした。
江戸時代の新潟平野と同じ状況が、古墳時代や飛鳥時代に起こった地域がありました。それが河内平野であり、奈良盆地でした。農業こそが生産活動の全てだった古代において、農業生産が大きいという事は、強力な国力があるという事です。その条件に一致したのが近畿地方だったのです。
巨大な淡水湖跡の土地が水田稲作に適している理由は、これまで何度も説明をしてきましたが、ここで再度、簡単に示しておきます。
巨大な淡水湖があった場所では、長い年月を掛けて湖の底に山々からの堆積物が積み上がります。それは栄養が豊富な上に、水はけの悪い泥状の土、すなわち沖積層です。やがて湖の水が引いて行くと、べったりと平坦で極端に水はけの悪い平地が広がります。しかも、湖の底だった場所ですので木々が生い茂っておらず、人工的な開墾作業を行う必要もありません。まさに天然の状態でも水田稲作が行える場所なのです。
近畿地方は、鉄器という最先端の道具の伝来や、牛や馬という強力な動力の伝来が極端に遅かった後進地域でした。それにも関わらず、大きな農業生産を上げ、人口爆発が起こったのには、このような地形的な優位性があったからこそなのです。
一方で、関東平野や濃尾平野、筑紫平野などでは、そうはいきませんでした。大きな河川からの堆積物によって平地が形作られたという違いがあります。この場合、河川の下流域では平坦で水はけの悪い沖積層が形成されますが、まず湿地帯となり、草原地帯となります。そして、早い時期に平地となった上流部では人の手が加えられなかった為に密林地帯となってしまいます。当たり前ですよね? 現代の河川敷を見ても分かる通り、10年間ほど増水しなかっただけでも立派な雑木林に変化していますよね? これと同じ理屈です。
せっかく河川の下流域で平地が形作られたとして、人の手が加えられなければ、あっという間に密林地帯へと変貌してしまうのです。一旦密林地帯となった場所を開拓開墾するのは、至難の業です。木々の伐採や根掘り作業など、多少の鉄器があったところで焼け石に水です。
この場合、開拓開墾の必要のない天然の水田適地は、湿地帯が干上がった草原地域だけになってしまいます。
典型的な例が、九州の筑紫平野です。現代でこそ広大な農地が広がっている地域ですが、弥生時代はそうではありませんでした。その当時の筑後川水系の下流域はまだ有明海の底か湿地帯。中流域は密林地帯となっており、大きな農業生産を上げられる場所ではありませんでした。水田稲作に活用できた場所は、有明海の沿岸部に限られていたのです。
吉野ケ里、久留米、八女、山門を結ぶ線が沿岸部で、その地域にだけ僅かな水田適地ありました。また、甘木朝倉という中流域では、せいぜい三日月湖跡地や谷底低地などの局地的な水田適地に限られていました。
北部九州は、朝鮮半島に近くて最先端の文物が一早く流入して来るという最高の場所にありながら、日本の歴史上、一度たりとも中心地になれなかった理由は、ここにあったのです。農業生産力が極端に弱く、人口爆発が起こらず、超大国が出現する下地が無かったという事なのです。
このように、河内平野や奈良盆地は、弥生時代までは巨大淡水湖に覆われていた為に日本列島の中でも指折りの後進地域でしたが、それにも関わらず、弥生時代後期から古墳時代あたりから淡水湖の水が引き始め、人口爆発が起こり、やがて日本の中心地へと成長していったのでした。これも一重に土地の成り立ち、すなわち巨大淡水湖があった事が最も大きなファクターでした。
では、河内平野に絞って古代の様子を探って行きましょう。
現代の河内平野は、西側に上町台地、東側に生駒山地に挟まれた盆地のような場所です。南側には、奈良盆地から流れ出す大和川があります。現代ではこの水は、上町台地を東から西へ横切っていますが、これは江戸時代に掘削工事が行われて流れを変えたものです。それ以前にはこの水は、河内平野を北上して大阪湾へと流れ込んでいました。
このような土地の形状ゆえに、古代には淡水湖が形成されていました。弥生時代前期には、現在の大阪府高槻市あたりまでほぼ全域が水で覆われていました。なおその時期には、現代の大阪市の中心部も完全に海の底でした。
弥生時代後期からこの淡水湖の水は徐々に引き始め、古墳時代前期には湖の半分近くが陸地になっていたようです。先ほどの土地の成り立ちでご説明しましたように、開拓開墾の必要がない、天然の状態でも水田稲作が行える絶好の平野が広がって行ったという事です。当然の帰結としてこの地に人口爆発が起こり、強力な豪族の出現を見ることになったのです。
やがて豪族たちは、権力の象徴として巨大古墳の造成する事になりました。上町台地に存在している百舌鳥古墳群や、大和川が流れ込む地域の古市古墳群です。
これらの古墳群は、台地の上や扇状地の上という水田には適さない場所にあります。巨大古墳についての俗説に、「水田開発の残土を利用して古墳を作った」、というのがありますが、これは完全な誤りです。仮にもしこれが正しいならば、水田開発が最も進んだ江戸時代にこそ、多くの巨大古墳があって然るべきですが、そんなものは一つもありませんよね?
巨大古墳については、さまざまな説が唱えられていますが、いまだに何一つ説得力のあるものはありません。「権力の象徴」という、無用の長物だったとしか考えられません。
このように、河内平野は淡水湖跡の天然の水田適地ではあったものの、実際に水田地帯が大きく広がったのは古墳時代以降の事で、弥生時代にはまだほとんどの部分は湖の底でした。また、現代のような立派な治水整備がなされいたわけではありませんので、頻繁に水没する事もあったようです。この地域の弥生遺跡からも、度重なる水没の被害にあった痕跡が確認されています。これは、河内平野に限った事ではなく、日本列島のどの弥生遺跡にも見られる事です。
逆の見方をすれば、水没したからこそ遺跡として残ったとも言えます。水没しない場所は、延々と人々の生活が続くわけですから、過去の遺物が土の中に埋もれる事も無い訳です。
河内平野については、古墳時代に入ってから広大な水田適地が広がったと同時に、洪水の被害も少ない、安定した農業生産が上げられたのでしょう。そして水田バブルに沸いて人口爆発が起こり、無意味な巨大古墳の造成へと繋がって行った訳です。
なお、河内平野は日本神話の神武東征における最初の上陸地点としても有名ですね?
古事記によれば、「浪速の渡」(なみはやのわたり)を越えて湾に進入し楯津に上陸した。とされています。これは、北河内の生駒山地の麓に当たります。この地域は、大和川の下流域なので、4世紀~5世紀ごろまでは、まだ湖だった地域です。
私は、神武東征が5世紀頃に起こった藤原氏一族の東遷であると推測していますが、それとの整合性も取れますね?5世紀にもまだ河内湖の水は完全には引いていなかったので、日向の国からやって来た人々が最初に上陸した場所が、北河内の生駒山地の麓とする古事記の記述と一致します。
いずれにしても、この地域は3世紀の邪馬台国の時代にはまだまだ拓けておらず、古事記や日本書紀に記されている神話や歴代天皇の記述も、せいぜい5世紀頃までしか遡れません。
なお、奈良盆地については、古代の奈良湖の水が引き始めたのが6世紀頃と一時代遅く、飛鳥時代になってようやく拓けた場所でした。
いかがでしたか?
今回は色々と話題が飛んでしまいました。何が言いたかったかと言うと、近畿地方は天然の水田適地に恵まれながらも、河内平野で4世紀、奈良盆地では6世紀にならないと拓かれなかった、という事です。邪馬台国時代には、まだまだ文明から取り残された後進地域だったという事です。河内湖と奈良湖という最高の自然条件があったからこそ、その後近畿地方は、日本の中心地へと成長できたのです。これが、文献史学では見えてこない近畿地方の真の姿なのです。