奈良盆地は論外 平凡な弥生遺跡群

 こんにちは、八俣遠呂智です。

近畿シリーズの12回目。邪馬台国の観点から、これまで纏向遺跡や箸墓古墳を中心に考察してきましたが、奈良盆地の弥生遺跡はこれだけではありません。有名な唐子鍵遺跡や小規模な高地性集落など、個性的な集落遺跡も存在しています。しかし残念ながら邪馬台国論争のテーブルに乗らないだけあって、あまり顕著な出土品はありません。かつて巨大な淡水湖が存在していた奈良盆地ですので、弥生時代にはまだまだ強力な王族は存在していなかったのでしょう。

 奈良盆地の弥生遺跡は、もちろん纏向遺跡だけではありません。纏向があまりにも広大な領域を指定されているので、相対的に目立たなくなっているのが実情です。

 かつてこの地には奈良湖という巨大淡水湖がありましたので、拠点集落と言える大型集落遺跡は、その湖岸を沿うように分布しています。大和川水系の上流部で比較的標高の高い場所に、纏向遺跡、成願寺遺跡、芝遺跡、坪井・大福遺跡、四分(しぶ)遺跡、などがあります。比較的標高の低い場所には、唐古・鍵遺跡、平等坊・岩室遺跡、多(おお)遺跡、中曽司遺跡、などがあります。これらは奈良湖の水量の変化によって、何度も水没しています。

 また南部の和歌山県との県境近辺にも、新沢一(にいざわかず)遺跡、や鴨都波(かもつば)遺跡などがあります。

この地図を見ても分かる通り、奈良盆地の南東部に集中している事が分かります。これは奈良湖の水が引くのは大和川の上流部からですので、比較的早い時期に平地が広がったからです。

 これらの遺跡からの出土品は、一般的な弥生遺跡と同様に土器類が中心です。残念ながら、強力な王族が存在していた根拠となる「威信財」の出土が少ないのが特徴です。

この中で特に有名な唐古・鍵遺跡に焦点を絞ってみましょう。ここは比較的標高が低い盆地の低地の中の微高地に位置しています。沖積層で形成された土地なので、天然の水田適地の中にありますが、奈良湖があった時代には、頻繁に水没していた場所です。

 見つかった遺物としては、大量の土器、大型建物2棟、銅鐸をはじめとする各種青銅器類、石器・木製品類、などです。ここでもやはり、鉄器類や宝石類の出土はほとんどなく、強力な王族が存在していたとは言えません。

 この遺跡の特徴としては、弥生時代の全期間に渡って存在していた事です。その期間には、奈良湖の水量が増えた事によって、しばしば水没していた痕跡が認められます。土器類が大量に出土している理由は、長期間続いた遺跡であると同時に、集落全体が何度も水没した為に何度も土器が埋められてしまった事によります。

 この唐古・鍵遺跡の例からも分かる通り、弥生時代に奈良盆地で強力な勢力が出現するにはかなりの無理がありました。単純に、奈良湖の水を抜けばいいだけですが、そうはいかなかった事情があったのです。奈良湖の水の出口である大和川の下流域には河内平野があります。工事を行って奈良湖の水を抜けば、今度は河内平野が水没してしまいます。河内平野の住民にとっては、たまったものじゃないですよね? 勝手に水を出したり止めたりすれば、利害のぶつかり合いになって、争いが起こってしまいます。水利権を巡る争いは現代でも起こっている事ですので、弥生時代の河内平野と奈良盆地の間には、当たり前のように戦争が起こった事でしょう。

 唐古・鍵遺跡が頻繁に水没していた様子から、その当時は河内平野の勢力の方が強く、奈良盆地の方は弱小勢力で虐げられていた様子が浮かび上がります。

なお、計画都市・纏向遺跡が頓挫してしまったのも同じ理由です。以前の動画「近畿(4): 纏向遺跡。計画倒れの狗奴国の都」で考察していますので、ご参照下さい。

 少し話は脱線しますが、法隆寺が建てられた場所について不思議に思った事はありませんか?

飛鳥時代に聖徳太子によって建立されたお寺ですが、その場所が当時の中心地から遠く離れた斑鳩の地なのです。

なぜでしょうか?

 その理由を、「大阪湾にやって来た中国からの使者を出迎える為」、などと寝とぼけた事を言う学者もいます。

どう考えてもそんな安っぽい理由ではないですよね?

 今回、弥生時代の奈良盆地と河内平野との水利権を巡る争いを考える中で、その答えが見つかりました。

斑鳩の地は、奈良湖の水量を調節するための最重要拠点だったといういう事です。奈良盆地全域の水がこの地に集まり、河内平野に抜け出ます。いわば奈良湖という巨大なダムの排水口が斑鳩なのです。

 斑鳩で大和川の水量を調節しながら、奈良盆地が水没しないように。あるいは十分な水が確保できるように、監視していたのではないでしょうか?

 飛鳥時代は権力が河内平野から奈良盆地に移った時代ですので、奈良盆地を守る為に、法隆寺にて大和川の水量を調節する重要な役割を担う人間が常駐していた、と考えるのに無理はないでしょう。

 話を元に戻します。

奈良盆地には、「高地性集落」も存在していました。弥生時代の瀬戸内海地域や近畿地方に多く見られる「高地性集落」ですが、その存在理由については、様々な説があります。眺望の開けた見晴らしの良い場所に立地している事から、敵の侵入を監視する為である、とする説が一般的なようです。ただし眺望の悪い場所にも多く存在していますので、少し違うように思えます。

 私は単純に縄文時代の風習が残っていたのだと見ています。平地での豊かな食料調達がままならない高地性集落は、焼畑農業や木の実拾い、野生動物の狩猟といった縄文時代の食生活となってしまいます。一つの集落当たり、多くても30人程度の人口扶養力しかありません。まさに縄文集落の名残りだったと言えるでしょう。

 これまでの動画で示しました通り、近畿や瀬戸内・四国は、文化的に閉ざされた後進地域でした。中国大陸からみれば内陸部ですので、仕方ないですよね? そんな地域でしたので、水田稲作という革命的な農業が始まった弥生時代でさえもなお、縄文時代からの生活習慣から抜け出せない一部の人々が存在していたという事でしょう。

 近畿地方が遅れた後進地域だった事を裏付ける要素には、弥生時代のお墓があります。4世紀からの巨大古墳のイメージが強すぎる地域ですので、邪馬台国の時代以前にも大きなお墓があった、と錯覚してしまいますよね?

 ところが奈良盆地から見つかった大型の弥生墳丘墓は、全くありません。これは、この地に強力な王族が存在していなかった事を明確に示しています。

 弥生時代の大型のお墓と言えば、北陸地方の四隅突出型墳丘墓や丹後半島の方形周溝墓が有名です。いずれも50メートル級の巨大な墳丘墓が数多く発見されています。これらのお墓からは、葬られた遺体の傍に、鉄剣や翡翠の勾玉、碧玉製管玉、ガラス玉などの宝石類、などの豪華な副葬品が見つかっています。また、遺体のまわりには「丹」と呼ばれる赤色顔料が撒かれていました。硫化水銀を主成分とし、防腐剤の役割があるからです。

 このような弥生墳丘墓は、奈良盆地にはただの一つもありません。これは、豪華な副葬品が全く無いという事だけでなく、この地に強力な王族が存在していなかった事を、如実に物語っています。弥生時代の近畿地方は、はまだまだ貧しかったという事です。

 奈良盆地に強力な勢力が出現したのは、箸墓古墳に見られるように、4世紀の古墳時代に入ってからの事なのです。

 いかがでしたか?

弥生時代の奈良盆地全域を見てみても、やはり大した出土品はありません。巨大な淡水湖が存在していた場所ですので、まだまだ多くの人々がおらず、平凡な集落しかなかったという事です。纏向遺跡という都市計画さえ成功していれば、そして奈良湖の水さえ抜く事ができれば? 奈良盆地の弥生時代も違ったものになっていた事でしょう。

 近畿地方の弥生時代は、邪馬台国のライバル狗奴国です。そしてその中心地は奈良盆地ではなく、河内平野の方です。