近畿地方の平野部は、巨大な淡水湖や扇状地が多く、決して稲作農業に適した土地ではありませんでした。その当時の人口も、農業生産高から推測すると、周辺の東海地方や瀬戸内地方よりも多かったとは言えません。
では、なぜ古墳時代と呼ばれる近畿地方の黄金期を迎える事が出来たのでしょうか?
邪馬台国時代の近畿地方の様子です。奈良湖・河内湖・巨椋池という三つの巨大な淡水湖があり、そのほかの平地は扇状地で密林地帯だったので、水田稲作ができる土地は限られていました。
そこに突然出現したのが、奈良湖南岸の丘陵地の纏向遺跡です。食料生産の無い土地に、どうしてこのような巨大遺跡が出現したのでしょうか?
実は、これは極めて単純な事です。奈良湖や河内湖の水を抜き、広大な水田地帯を作る為の拠点だったのです。
水田稲作に適した土地は、水はけが悪く、泥質の土です。そして、平坦であればあるほど畔を作る手間が省けるので、大規模な水田地帯となります。このような土地は、淡水湖が干上がった後に出来上がります。
上図のように、淡水湖ができると、数千年の長い時間を掛けて、山々からの栄養豊富な堆積物がたまります。しかも、湖底は平らに出来上がります。その淡水湖の水を抜けば、驚くほど平坦で、極端に水はけの悪く、栄養豊富な泥質の沖積平野が広がります。これは、大規模な水田稲作には最高の土地です。しかも、密林地帯にはなっていないので、鉄器の必要もありませんでした。農業後進国だった近畿地方に集まってきた人々は、そのことを良く知っていたのでしょう。
現代で例えるならば、札幌市に似ていると思います。北海道の屯田兵の窓口となりました。同じように、弥生時代末期の纏向遺跡は、農業後進国だった近畿地方の開拓の窓口だったのです。
まず、河内湖の水を抜いて広大な沖積平野としました。次に、奈良湖の水を抜いて広大な沖積平野としました。最後に、巨椋池の水抜きを行いました。巨椋池については、完全な水抜きが完了するのは、わずか100年前の昭和初期の事です。
纏向遺跡は、これから大規模農業地帯が広がって行くという期待感で、日本全国各地から人々が集まってきたのでしょう。