近畿地方の鉄器伝来は、九州よりも500年も遅れています。古墳時代中期にようやく鉄器の出土が見られます。そんな『鉄器後進国』の近畿地方が、どうして古墳時代という黄金期を迎えられたのか?
理由は、意外に単純でした。鉄器を必要としなかったからです。鉄器なしでも、広大な農耕地を得ることが出来たからです。九州と近畿の地形・地質を比較しながら、近畿の運の良さを明かします。
まず、鉄器伝来の推移を見てみましょう。北部九州には、紀元前から鉄器が伝来しています。その後、二世紀、三世紀と、日本海を沿うように鉄器が広まっています。日本海側には、朝鮮半島北東部の鉄鉱石の産地から直接流入した、という説が有力です。奈良地方には、古墳時代中期の五世紀頃にようやく、まとまった数の鉄器が出土しています。これは、古墳時代初期には、奈良にはまだ鉄器が無かったという事です。
弥生時代末期の北部九州地方と近畿地方との違いを比べてみると、明らかなのは平地の成り立ちです。北部九州は、大きな川が平地を広げていった沖積層。近畿地方は、巨大な淡水湖跡の沖積層。この違いが、鉄器後進国の近畿に広大な農地をもたらし、日本の中心へと成長させたのです。これを模式的に図解しました。
この図は、川が海岸線を広げて行った場合です。弥生時代中期の平地で稲作が始まった頃は、下流域に湿地帯があり、そこを干拓して耕作地を造り、農耕が行われました。すでに密林と化していた上流域では、開墾は不可能でした。古墳時代には海岸線が伸び、農耕地の面積は多少は増えました。しかし、大規模水田を造れるほどの規模ではありません。
それに対して淡水湖の場合です。
山々に囲まれて淡水湖が出来、湖底には沖積層が生成されます。この淡水湖の水が抜けると、水田稲作に適した農耕地が広がります。近畿地方の場合、巨大な淡水湖が二つあり、丁度、古墳時代の始まりの頃に広大な農地が広がりました。密林地帯を開墾するための鉄器が必要なかったのです。木を切るための斧、根を掘り起こすための鍬、などです。