吉備の国が山陽道の中心となった理由

 こんにちは。八俣遠呂智です。

山陽道・四国シリーズの5回目。今回は、岡山県、備中の国・備前の国・美作の国に入ります。

「吉備の国」と呼ばれるのは、広島県東部を含めて、まさにこの地域です。古代における山陽道の中心地で、弥生時代から古墳時代に掛けての遺跡や出土品が多い事で有名です。今回は、この地域の地理的条件や古代農業の視点から考察します。

 吉備国は、現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部(とうしょぶ)および兵庫県西部にまたがり、古墳時代後期頃から、筑紫、出雲、毛野などと並ぶヤマト王権を支える有力な地域の一つでした。それを証明するように、弥生時代後期から古墳時代に掛けての遺跡が豊富で、古代の山陽道の中心地だった事を物語っています。

奈良時代の行政区分では、備前国。備中国。備後国。美作国、に分けられました。このうち備後の国は、前回の動画で安芸の国と一緒に考察しましたので、今回は割愛します。

 ではまず、弥生時代の吉備の国の農業の様子を考察します。

現代では、岡山市のある岡山平野、つまり瀬戸内海沿岸地域に人口が集中しています。ここは、河川による沖積平野ですので、弥生時代にはまだ海の底や湿地帯でした。この地に人口爆発が起こったのは、堆積物で平野が広がった中世以降です。なおこの地は、奈良時代の行政区分では備前の国に属しています。

 古代の吉備の国の中心地は、備中の国、および美作の国の方だったと推測します。

それは、このエリアで農業が盛んに行われていたのは、総社盆地と津山盆地だからです。どちらも淡水湖跡の沖積平野ですので、天然の水田適地です。

 総社盆地の方は、弥生時代から古墳時代にかけての多くの遺跡が見つかっていますので、考古学的な史料と水田適地との相関が取れています。

 一方、津山盆地のある美作は、中国山地の中にある小さな国なので、あまり目立ちませんね? 現代でも人口が少ないこの地が、奈良時代に一つの国として成立したのはなんだか不思議な気がしませんか? しかしこれにも理由があります。津山盆地は天然の水田適地だったからこそ、面積の割には大きな農業生産が上がっていた。つまり国力があったという事なのです。

 それを証明するデータが、弥生時代よりも1300年も後の、江戸時代の石高帳(1604年 慶長郷帳)に見て取れます。

その頃になると、備前の国・岡山平野は河川の堆積による広い水田適地が広がっていましたので、この地域では最も大きい29万石でした。総社盆地のある備中では23万石、広島県の備後では24万石となっています。

 そして吉備の国の中で最も面積が狭く、現代では過疎化が進んでいる美作の国は、江戸時代初期にはなんと23万石もの石高がありました。つまり、江戸時代初期にもまだ、美作の国はほかの吉備諸国と肩を並べるくらいの農業生産高があり、人口も同じくらいいた、という事です。「美作」という名称自体が、豊饒な天然の水田適地だった事が由来だとする説もあります。

 現代の感覚では、失礼ながら美作の国は無視してしまうほどの小さな国です。しかし、古代の水田適地という視点からは、決して無視してはならない存在です。

 この事例からは、現代の感覚で弥生時代の勢力分布を推測する事の危険性が、垣間見れるでしょう。

 吉備の国における顕著な弥生遺跡は、総社盆地周辺に分布しています。それらの詳細は次回の動画で考察するとして、なぜ総社盆地だったのか? を考えてみます。

 もちろん、先に述べたように天然の水田適地が広がって、国力が付いたことが理由の一つでしょう。しかし、面積規模としては山間部の津山盆地に劣っています。また、東隣に位置し同じ沿岸部にある西条盆地では、総社盆地ほどの弥生遺跡はありません。

 吉備の国が総社盆地を中心とした勢力になったもう一つの理由は、海上交通の要衝だったことでしょう。瀬戸内海の地図を見れば分かる通り、吉備の国と四国との間が最も狭くなっており、海路の選択肢が少なく迂回する余地がありません。

 当然のようにそこには、通行する船を襲って略奪する海賊が存在したでしょうし、村上水軍のように海峡を通過する船から通行料を取って収入を得ていた集団もいたことでしょう。

 もちろん、弥生時代には大型船を建造する技術はありませんでしたので、せいぜい海峡を小舟で行き来する程度だったでしょう。それでも、海の安全を監視しなが、不届き者の通行を妨げる、いわば関所のような役割を担う集団がこの地域に存在し、総社盆地の農業生産と相まって強力な豪族へと成長していったのではないか? と推測します。

 弥生文化の伝播という観点からは、日本海側の出雲の影響が強く見られますので、瀬戸内海を通って九州から伝わって来たとは考えられません。しかし、吉備の国を中心とする瀬戸内海の局地的な勢力が発生し、個性的な文化を醸成するには十分な地理的条件を備えていたと言えます。

 いかがでしたか?

今回は、弥生時代の瀬戸内海の中心・吉備の国の農業を地理的な視点から考察しました。古代国家の成立は、とても単純でしょう? 自然条件を照らし合わせてみれば、なぜそこに? という疑問が次々に解き明かされます。

次回は、吉備の国で発見されている弥生遺跡や出土品、そして古墳時代へと連なる吉備文化について考察します。