飛鳥時代の首都 大宰府

 福岡平野の中央部を流れる御笠川の上流には、大宰府があります。ここは、7世紀後半に、筑前国の行政の中心として設置された機関がありました。

 外交と防衛を主任務とすると共に、九州全域の行政・司法・人事をも所管し、大和朝廷への報告、遣隋使・遣唐使の出入国管理局のような役割も果たしていました。

 与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷」とも呼ばれ、九州における実質上の首都といえる場所でした。

 弥生時代を考察する前に、まずは飛鳥時代の「なぜ大宰府だったのか」という事を、農業や地理的な見地から考察して行きます。

大宰府10
大宰府

 この地図は、北部九州地域です。博多湾に流れ込む御笠川の上流域、現代の太宰府市を中心に、北側の大野城市、南側の筑紫野市を含めた一帯を大宰府エリアとして、調査して行きます。

 ここは、福岡平野と筑紫平野とを結ぶ、なだらかな峠の頂にあります。

必然的に平地の面積は狭く、多くの人口を賄えるだけの農業生産は期待出来ません。

また、山々に近い場所ですので、洪積層や砂質の土壌が多く、水田適地の少ないエリアです。谷底低地や三日月湖跡地のような限られた土地にだけ、水田稲作が行われ、他は焼畑農業が主体だったようです。

 このような農業事情にも関わらず、飛鳥時代以降、九州の中心地となったのには、地政学上の理由があります。

大宰府20
平野の中間

 古代の北部九州の状況を俯瞰してみると、大宰府の地に重要な政府機関が置かれたの当然だったと言えましょう。

まず、農業の視点です。

 福岡平野は扇状地の砂質の土壌がほとんどで、生産効率の悪い焼畑農業が主体でした。農業の生産量が少ないという事は、多くの人口を抱える能力が無かったという事です。その代わりに、博多湾という中国・朝鮮からの文物が入って来る港町としては、日本で最も優れた場所でした。

 一方、筑紫平野は、筑後川による沖積平野で、有明海に注ぎ込む下流域では水田適地が多く、農業生産性の高い地域でした。必然的に多くの人口があり、大きな勢力が出現する下地がありました。

 現代でこそ博多という大都会が存在していますので、福岡平野には多くの人々が住んでおり、筑紫平野の方はのんびりした田園地帯、というイメージを持ってしまいます。ところがこれを古代の状況に当てはめるのは大きな誤りです。江戸時代末期でさえ、福岡平野よりも筑紫平野の方が多くの人口を抱えていたという事実があります。稲作農業が最も重要だった時代には、どれだけ米が取れるかで、生活できる人口のキャパシティが決まっていたのです。

大宰府21
稲作と交易

 このような状況の中で、大宰府という場所は、農業生産の高い筑紫平野から、貿易港の博多湾への物資輸送の中間地点として、最高の立地でした。

 有明海沿岸の水田稲作地帯からは筑後川と支流の宝満川を遡った場所です。しかもなだらかな傾斜の峠に大宰府は位置しています。そこからは御笠川を下れば博多湾に出る事が出来ます。

 交易の視点からは逆のルートになります。博多湾に入って来た中国・朝鮮の文物は、今度は御笠川のなだらかな傾斜を遡って大宰府に辿り着き、そこから筑後川支流の宝満川を下って有明海沿岸地域に到着する事が出来ます。

 古代において最も重要な水田稲作農業と交易業の中間地点という非常に貴重な場所に、大宰府が存在している事が分かります。

大宰府22
必然性

 大宰府の位置は、福岡平野と筑紫平野との交通の要衝だった事が最も重要と考えられますが、北部九州全体を見ても、そのほかの様々な陸路が集まる中心地だったと言えます。

 まず、直方平野の遠賀川上流域に抜ける事も比較的容易ですし、更に東側の峠を超えれば、周防灘に面した行橋市エリアに抜ける事が出来ます。これは、関門海峡という古代の大型船舶では航行が難しい海域を避ける事が出来ます。

 一方、大宰府の南東方向は、甘木朝倉エリアという古代の密林地帯がありますが、そこを抜ければ日田盆地、さらに険しい山道を抜ければ別府湾へと繋がります。

 弥生時代にはほとんどが獣道でしたので、どれだけ陸路が拓けていたかは不明です。しかし、少なくとも飛鳥時代には北部九州各地から大宰府という一ヶ所に集中する陸路や水路が通っていた場所なのです。

 この地に、九州の首都機能を持った政府機関が置かれたのは、必然だったのでしょう。

 飛鳥時代の大宰府は、『魏志倭人伝』に見られる「一大率」と良く似たシステムと言われています。古代の首都機能が集約しているという類似性があります。

 なお、七世紀の白村江の戦いで日本が唐・新羅連合軍に敗れた後、唐が日本に攻め入るのを過度に恐れました。この対策として大宰府周辺を巨大な土塁で囲み、北に大野城、南に基肄城などの城堡が建設された事は有名です。

 大宰府が置かれた飛鳥時代は、邪馬台国の400年以上も後の事です。しかしながら、農業状況や大陸との交易状況には多くの類似点があります。

 次回は、大宰府周辺から発見された弥生遺跡群を基に、当時の様子を考察して行きます。