甘木・朝倉地域を中心とする筑紫平野には、奈良盆地と酷似している地名が多数存在しています。これを元に、「邪馬台国東遷説」を唱える論者も存在します。
現代の無数にある地名の中から、都合の良い場所だけを拾い出した「こじつけ感」は否めませんが、何らかの因果関係はあったとも考えられます。
今回は、類似する地名をピックアップして、その真偽性を考察すると同時に、なぜ似通った名前が付けられたのかを、独自の視点で解明します。
この地図は、甘木・朝倉地域を中心とする筑紫平野です。周辺には、北側に大宰府、博多、西側には久留米や、吉野ヶ里遺跡があります。
この地域で奈良盆地の地名と酷似している名前が幾つもあります。
山の名称では、鷹取山、香山(こうやま)、鳥屋山(とやさん)、長谷山、三笠山、笠置山などです。平野部では、朝倉、三輪、小田、三井、筑前高田などです。
現代の市町村合併の影響で、昔からの地名の多くは失われていますが、江戸時代の古文書の記録には、これらの名称が使われていたようです。
この地図は、奈良盆地を中心とする近畿地方です。この盆地の北部に平城京があった奈良市、南部にはそれ以前の中心地だった飛鳥があります。また、日本最大の弥生集落跡の纏向遺跡も、このエリアです。
そして盆地中央の大和川が大阪平野へと抜ける場所に、法隆寺のある斑鳩が位置しています。
甘木朝倉の地名と酷似しているのは、
山の名称では、高取山、天香具山(あまのかぐやま)、鳥見山、長谷山、三笠山、笠置山などです。
平野部では、朝倉、三輪、織田、三井、大和高田などです。
そのほかにも、多くの地名が甘木朝倉地域と類似しています。
この二つの地域を比較すると、確かに多くの地名に類似点が見られます。
しかしながら、数え切れないほどある山の名称、数え切れないほどある地名の中から、都合の良いものだけを拾い出したようにも思えます。
地学的に古代の状況を推測すると、甘木朝倉地域は密林地帯に小集落が点在していましたので、古い地名はその当時も点在していた可能性はあります。
一方、奈良盆地南部は淡水湖や湿地帯でしたので、水の底だったかも知れません。しかし、ここで挙げた地名はいずれも丘陵地に位置していますので、弥生時代にも存在していた可能性は高いでしょう。
また類似する山々は、火山ではないので、弥生時代にも存在していた事は間違いありません。
これらの名称の類似性を、偶然と見るか、こじつけと見るか。
私は、強い関係性がある、と思います。地名については、現代では変更や廃止が多くありますが、古代からの地名は江戸時代まで受け継がれているケースが多い事。山々は古代も現代も同じ姿で同じ名称が受け継がれている事。そして、現代の地名から見ると僅かに思えますが、古代の集落はそもそも少ないので、決してこじ付けとは決め付けられません。これらの事から、あながち無関係とは言えないでしょう。
甘木朝倉と奈良盆地とは、因果関係があったとみなします。
ではなぜ甘木朝倉と奈良盆地に地名の類似性があるのでしょうか。
世界的に見て、どの民族も新たな土地へ移り住んだ場合には、元々住んでいた場所と同じ地名を付けるものです。イギリス人が海を渡ってアメリカを開拓した例が顕著です。イギリスの「ヨーク」から来た人々は「ニューヨーク」と名づけ、「ハンプシャー」から来た人々は「ニューハンプシャー」という具合です。それと同じような事情があったのだろうと考えます。
つまり、奈良盆地に住んでいた人々が何らかの理由で、北部九州に移り住んだのです。しかも民族大移動とも言える大規模なものでした。
古代における最も大きな事件は、白村江の戦いです。飛鳥時代に朝鮮半島において、倭国・百済連合軍が、唐・新羅連合軍と戦った事件です。この戦いには日本から20万人もの軍隊が海を渡ったとされています。20万人という数字には、誇張があるでしょうが、数万人規模の大軍隊だとすれば現実的でしょう。この大軍隊を当時の北部九州の農業生産で賄うには、無理がありました。そこで大和朝廷は、大宰府の地に拠点を置き、奈良盆地に住んでいた大勢の人々を筑紫平野へ移住させたのです。必要となった大量の食料は、未開の密林地帯の甘木朝倉地域を大規模に開墾する事で農地を広げ、大軍隊の食料財源としたのでした。その当時は、すでに馬や牛が日本に伝来しており、弥生時代よりは遥かに開墾作業が進んでいたと思われます。また、地名から察するに、移住して来た人々は、奈良盆地の「朝倉」に住んでいた人達だったのでしょう。彼らが奈良盆地と同じ地名を北部九州各地に名付けて行ったのです。
つまり、「朝倉西遷説」というわけです。
甘木朝倉と奈良盆地の地名の類似性から、邪馬台国東遷説を説くには無理があります。
それは、弥生時代の北部九州には、大きな人口を賄えるだけの農業生産がなく、奈良盆地まで移動できるだけの巨大勢力ではなかった事、そして弥生時代には大型船舶で瀬戸内海を航行する技術が無かった事、が上げられます。
農業や航海術の視点から見ると、飛鳥時代の朝鮮半島情勢の悪化によって、奈良盆地から大勢の人々が北部九州へ移り住んだと考える方が、自然でしょう。
次回は、筑後川を上流に遡り、日田盆地の弥生時代の様子を探って行きます。