弥生時代の筑紫平野は、現在よりもかなり狭く、ほぼ半分くらいの面積しかありませんでした。それは、筑後川が長い年月を掛けて有明海に土砂を運び、現代のような筑紫平野を作り上げて行ったからです。弥生時代末期の海岸線は、久留米市あたりだったと言われています。そして、その時代の水田適地は湿地帯が干上がった沿岸部でした。
必然的に筑後川の中・上流域に比べて、この地域で賄える人口は多くなり、強い勢力が出現する下地が出来ました。この地の豪族は、文献史学上では抵抗勢力として描かれています。
この地図は、現代の筑紫平野を拡大したものです。有明海に注ぐ筑後川水系の堆積物によって広がっている沖積平野です。
弥生時代の海岸線は、現代よりもかなり上流域にありました。これは地層の年代鑑定からだけでなく、弥生遺跡の分布でも明らかです。実際に久留米市よりも下流部には、中州だった地域を除いて遺跡は存在しません。
この久留米市を中心とする海岸線は、天然の水田適地でしたので食料確保が安定し、強力な豪族が出現したのでしょう。古文書でもこの地域は敵対勢力として描かれていますので、水田稲作に適した土地との相関が取れています。
この地域の主な弥生遺跡の分布を示します。
山側の丘陵地に存在した吉野ヶ里遺跡や、白木西原遺跡。筑後川の下流域に位置する道蔵遺跡(どうぞういせき)などがあります。
古代史に興味の無い人でも知っている吉野ケ里遺跡という巨大な拠点集落はありますが、それ以外はあまり多くありません。
弥生時代には、これらの集落遺跡を結ぶ線が海岸線だったようです。この地域に水田稲作に適した土地が広がり、集落が生まれていったのでしょう。
なお現代でもそうですが、有明海は遠浅の海です。海岸線とは言っても、三角州の様な半分は湿地帯、半分は陸地という状態でしたので、多少の中州があればその周辺は水田適地になっていたようです。蒲船津江頭遺跡(かまふなつえがしらいせき)の位置が、それに当たります。
文献史学上では、この地は対抗勢力となった豪族が出現していた地域です。
三世紀~四世紀頃とされる神功皇后の熊襲征伐の山門、六世紀の継体天皇の時代の磐井の乱の筑紫磐井勢力は、この地域です。
それだけ農業生産力があって、豪族出現の下地が出来ていたという事でしょう。
筑紫平野の有明海沿岸地域は、邪馬台国九州説の比定地とされる事の多い地域です。それは、魏志倭人伝の行路を曲解し易い事もありますが、天然の水田適地が存在していた事も大きな要素です。また、支石墓や神籠石が分布する地域でもあり、それを根拠とする論者もいます。
次回は、山門に焦点を当てます。ここは江戸時代の学者・新井白石が比定地とした場所で、現在でも多くの支持を集めている場所です。