甘木・朝倉は敵対勢力

 甘木・朝倉を中心とする筑紫平野の内陸部では、様々な古代遺跡が発見されています。弥生時代に限らず、その前の縄文時代の遺跡も豊富です。この地域が密林地帯だった事もあり、木の実採取を生業とする縄文人たちには絶好の環境だったのでしょう。

 もちろん弥生時代の遺跡も豊富にありますが、福岡平野を始めとする玄界灘沿岸地域と比べると、豪華さではかなり見劣りします。

 甘木・朝倉エリアの出土品や記紀などの文献史学から、奴国とは敵対する勢力がこの地にあった事が垣間見られます。

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甘木朝倉の遺跡群

 甘木・朝倉地域には、弥生遺跡が豊富にあります。前回の動画でも紹介しましたが、最も典型的なのは、低湿地に作られた大規模環濠集落の平塚川添(ひらつかかわそえ)遺跡です。吉野ヶ里遺跡と並んで、筑紫平野の代表的な弥生時代の拠点集落跡です。

 もちろん、この地域にはこれ以外にも、幾つか発見されています。

大宰府の南側の筑紫野市、築前町、小郡市にかけての地域には、集落や墳墓など、弥生時代の遺跡が分布しています。

 筑紫野市の隈・西小田遺跡

 小郡市の三沢遺跡

 筑前町の東小田峯遺跡

などです。

これらの集落遺跡からは、弥生土器や農耕具などの生活用具の他に、甕棺墓から、青銅鏡や青銅武器、玉類、ゴホウラの貝輪(かいわ)といった、非常に貴重な副葬品が出土しています。

 また、朝倉市の下原遺跡(しもはらいせき)からは硯、栗山遺跡からは絹、栗田遺跡からは祭祀土器という、学術的にも価値の高い出土品が見られます。

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小国林立

 このように、甘木・朝倉を中心とする地域には、数多くの弥生遺跡が発見されています。また、土壙墓や甕棺墓からの多数の副葬品から、小規模な集落勢力とそれをまとめる権力者が存在していたのは間違いありません。

 しかし残念です。イマイチ個性がありません。

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威信財少ない

福岡平野を中心とする玄界灘沿岸地域のような、目を見張る威信財の出土が無いのです。

 銅鏡などの青銅器類、鉄剣・鉄矛などの鉄器類、勾玉・管玉などの装飾品は、出土こそあるものの、数量が明らかに劣っているのです。特に糸魚川産の翡翠の出土は皆無です。

 弥生時代の甘木・朝倉は密林地帯でしたので、小国が林立しているだけで、大きな勢力とは成れなかった事、そして博多湾岸の海人族を主体とした強力な国家・奴国とは一線を画していた、と想像するに難くありません。

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致命的

 甘木・朝倉地域からの威信財の出土数が少ないという事実には、反論があります。

つまり、「まだ見つかっていないだけ」「きっとあるはずだ」という意見です。

邪馬台国がこの地にあったと思いたい人々にとっては、切ない願望だと思います。実際、私も甘木朝倉説を支持していた頃は、やまり「まだ見つかっていないだけ」と妄信していました。今となってはお笑い種です。2020年時点で、既に数多くの遺跡が発見されていますが、それでも威信財の発見が少ないというのは致命的でしょう。

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畿内説

 同じような事例が、邪馬台国・畿内説にもあります。よく知られているように、弥生時代における近畿地方の鉄器の出土はほんの僅かです。鉄器の出土の少なさをもって畿内説はありえない、とする意見に対して支持者たちはこう言います。「まだ見つかっていないだけ」「きっとあるはずだ」

 哀れですね。

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甘木朝倉の古文書での記載

 一方、文献史学の視点からは、甘木・朝倉地域は敵対勢力として描かれています。記紀の中の神功皇后・熊襲征伐における記述です。

 羽白熊鷲(はじろくまわし)というこの地域を拠点としていた豪族が、中央政権に従わない為、神功皇后が征伐したという事になっています。

もちろん神功皇后や羽白熊鷲が実在していたかどうかは不明ですが、博多湾沿岸地域と筑紫平野とは、常に敵対関係にあった事を示唆しているのではないでしょうか。

 ここまでの甘木・朝倉地域の様子を整理しますと、

農業の視点からは、密林地帯で農耕地は限られており、小国が林立していました。

考古学の視点からは、威信財が少なく、大国が存在していたとは考えられません。

文献史学の視点からは、博多湾勢力とは敵対していました。

 残念ながら、邪馬台国・甘木朝倉説には説得力が無いと言わざるを得ません。この説の提唱者は、様々な統計学的手法を用いて弥生時代末期の超大国を特定しています。一見「確からしい」と思わせる手法に長けています。しかしながら、統計学というのは状況が分かりやすい一方で、本質を都合よく覆い隠すなど、かなりのくせ者です。気をつけないと、反則まがいの巧妙な手段にまんまと引っかかってしまいます。