海人族 vs 稲作族 大宰府は国境

 飛鳥時代以降に九州の首都になった大宰府。

  縄文 ⇒ 弥生 ⇒ 古墳 ⇒ 飛鳥

飛鳥時代は、日本列島がようやく一つの国として体を成した時代でした。近畿地方を中心とした中央集権国家体制が確立し、九州という最重要拠点に行政機関を置く必要がありました。

 では、弥生時代の大宰府エリアの様子はどうだったのでしょうか。

大宰府を邪馬台国と比定する学者もいますが、考古学的には大きな疑問符が付きます。

 今回は、弥生時代に焦点を当て、農業・考古学・文献史学の見地から当時の様子を推察します。

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大宰府は辺境

 前回に引き続き、大宰府エリアの様子を考察します。福岡平野を流れる御笠川、筑紫平野を流れる宝満川の上流域に位置しています。

 焼畑農業しかできない砂質の土壌と、狭い耕作面積から、この地域だけの農業生産では、大きな国が出現する事は不可能です。

 大宰府という場所が九州の首都になったのは、日本列島が国としての体を成した飛鳥時代だったからこそです。筑紫平野の米の生産、博多湾の交易品、瀬戸内海地域への陸路整備、など物流の重要拠点となりました。さらには、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた後に、朝鮮半島からの侵略に対抗する砦として、玄界灘から離れた峠の頂は絶好の場所でした。

 しかし飛鳥時代以前には、この場所は中心的な役割を果たしておらず、むしろ辺境の地だったと思われます。

 これは考古学的な視点からも、言える事です。

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大宰府周辺の弥生遺跡は陳腐

 大宰府エリアの弥生時代の遺跡に、特筆すべきものはありません。さらにその後の古墳時代でさえも、ほんの僅かです。

 強いて挙げるならば、

1.太宰府市の吉ケ浦遺跡から、弥生時代の「絹」が出土した事。

2.大野城市の村下遺跡(むらしたいせき)から、竪穴住居跡や土坑(どこう)という弥生集落が見つかった事。

3.筑紫野市の以来尺遺跡(いらいじゃくいせき) から農耕用の鉄器類が数点出土している事。

といった程度です。

 これらは、少し北側の須玖岡本遺跡(すぐおかもといせき)や安徳台遺跡といった大規模集落跡や王族の墓といった遺跡群とは比べ物にならない小規模なものです。

 また、少し南側の小郡市(おごおりし)周辺の遺跡群からは、多数の鉄器が出土しています。

この様に大宰府エリアの弥生遺跡は、北の福岡平野、南の筑紫平野の豊富な遺跡群に挟まれ、極めて陳腐なものと言わざるを得ません。

 では、弥生時代の大宰府の立ち位置はどうだったのでしょうか。

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大宰府は通過点

 基本に帰って、水田稲作の伝来から順を追って行きます。まず、佐賀県の菜畑遺跡が縄文時代後期の水田遺構として最も古いとされています。ここを出発点として、次の時代に板付遺跡の水田遺構があり福岡平野での水田稲作が始まりました。残念ながら、玄界灘沿岸地域に水田適地は少なく、大規模水田地帯にはなりませんでした。その後、直方平野の水田適地へと進化しながら広がりをみせます。同じ時期に筑紫平野でも水田稲作が始まりました。この平野も有明海沿岸部は水田適地でしたので、大規模水田稲作が行われました。伝播経路として、峠に位置する大宰府を越えて行ったのは当然でしょう。

 筑紫平野では、まず筑後川水系の上流の甘木朝倉地域の水田適地で始まりました。この地域は、弥生時代にはまだ密林地帯でしたので、面積の割には農耕地は少なく、三日月湖跡地のような狭い水田が点在しているに過ぎませんでした。

 一方、筑後川下流域の有明海沿岸地域は、密林になる前の水田適地でしたので、大規模な農業が行われていたと考えられます。つまり大きな勢力が出現する下地があったという事です。

 弥生時代の有明海の海岸線は、吉野ヶ里、久留米、八女、山門を結ぶ線上でした。この地域は、考古学的にも、文献史学的にも、大きなな勢力があった事が確認されていますので、水田稲作と国家の成立との相関関係が見事に一致しています。

 このような弥生時代の状況の中では、大宰府エリアは農業に適さない単なる通過点でしかなかったのでしょう。

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文献史学上の大宰府

 文献史学上では、この大宰府エリアを境にして、福岡平野と筑紫平野との対立が描かれています。古事記や日本書紀という、根拠の希薄な書物の記述ではありますが、参考程度に紹介します。

 まず神功皇后の熊襲征伐です。時代としては三世紀~四世紀頃とされています。越前の国から奴国・福岡平野にやって来た神功皇后は、大宰府エリアの神社に祈願した後、熊襲征伐に向かいました。反乱が起こった地点は、朝倉地域と山門地域です。

 なお、記紀は八世紀に書かれた書物ですので、大宰府に神社があったというのは、脚色でしょう。

 一方、魏志倭人伝には卑弥呼や壹与の時代に、倭国大乱があったとの記述があります。神功皇后の熊襲征伐は、これとの整合性も取れる事件といえます。

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海人族と稲作族との戦い

 次に、磐井の乱です。これは、久留米・八女の穀倉地帯から出現した磐井一族による反乱です。時代は六世紀で、継体天皇の時代です。継体天皇もまた越前の大王だった人物です。

 この戦いも、大宰府を境にして、福岡平野とは異なる筑紫平野の勢力が存在していた事を示しています。局地的には、博多湾の海人族と筑紫平野の稲作族との戦いでした。

 また、魏志倭人伝に記されている「奴国」は福岡平野ですので、そこは邪馬台国の勢力下でした。すなわち大局的には、邪馬台国が筑紫平野の反乱を抑え込んだという事です。

 弥生時代には、福岡平野の海人族勢力と、筑紫平野の稲作農業勢力とが明確に分かれていたと考えられます。その中で、大宰府エリアは謂わば「国境」のような存在だったと推測します。

 弥生時代~古墳時代に掛けて起こっていた勢力争いは、飛鳥時代には治まりました。やがて中間地点に大宰府という行政機関が置かれました。日本列島が統一して行く中で、ここは九州の首都としての重要な地位を持つ事になりました。それだけでなく、白村江の戦の後の、中国・朝鮮勢力から日本を防衛する「砦」としての役割も果たしていたのです。

 次回からは、大宰府という峠を越えて、筑紫平野に入ります。この地域の弥生時代について、考察して行きます。