水田の伝播は 縄文人が主役

 弥生時代初期に直方平野で確立された水田稲作農業は、「遠賀川式土器」と共に、日本列島に一気に拡がりを見せました。

 特筆すべきは、本州最北端の青森県への伝播が、極めて短い期間に起こっている事です。これは、水田稲作文化を伝えた中国人が、自ら広げて行ったとは、到底考えられません。元々日本列島に住んでいた海洋民族・縄文人の活躍抜きには語れないでしょう。

 今回は、縄文土器から弥生土器への進化と、水田稲作文化を伝搬した縄文人の活躍ついて推察します。

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水田の進化

 縄文土器から弥生土器への進化は、直方平野を中心とする北部九州で起こりました。遠賀川式土器と呼ばれる弥生時代初期の標準土器です。この土器は、穀物保存や調理に適していますので、水稲栽培の伝来と同じ時期に、進化しました。

 これまで発見された水田を時代順にまとめますと、まず紀元前六世紀頃に、日本最古の水田遺構である菜畑遺跡(なばたけいせき)が発見されています。ここは、河川沿いの狭い平地部分で、出土した土器は縄文土器でした。次に紀元前五世紀頃に、板付遺跡(いたづけいせき)から水田遺構が発見されています。丘陵地の中の僅かな沖積地に水田が拓かれていました。この遺跡からは、縄文土器と共に、遠賀川式土器も発見されています。

 そして直方平野です。当時は汽水湖だったこの地域ですが、湖周辺の多くの沖積層で水田遺構が発見されています。もちろん大量の遠賀川式土器の発見はこの地です。

 これを現代の生産工場で例えるならば、菜畑遺跡(なばたけいせき)が研究部門の一次試作工場、板付遺跡(いたづけいせき)が開発・設計部門の二次試作工場、直方平野が販売部門に直結する大量生産工場、とでも言えるでしょう。

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水田の伝播

 では、この直方平野で確立された弥生時代初期の水田稲作農業は、どのように日本列島に拡がったのでしょうか。

 ここでは典型的な例として、水稲栽培の北限とされていた地域で発見された水田遺構を紹介します。

 青森県弘前市で発見された砂沢遺跡です。ここは、縄文集落や縄文畑作農業で有名な三内丸山遺跡のすぐ近くです。縄文時代でありながら弥生時代と同じような生活形態のあった土壌ですので、水田稲作農業もすんなりと受け入れられたのでしょう。

 ここの水田遺構は弥生時代前期の紀元前三世紀頃で、遠賀川式土器も出土しています。これは、直方平野で水田稲作のスタイルが出来上がってから、ほんの僅かな期間で、九州から青森にまで伝播していたという事です。

 これは、近畿地方で発見されている水田遺構群とほぼ同じ時期です。

距離的に近い近畿地方への伝播が、青森県と同じというのは意外に遅かったと言うべきでしょう。理由として、瀬戸内海という航海の難しい海が、長距離移動の障害になっていたと考えられます。

 このような水田稲作の広がる順序から、縄文時代から弥生時代へと受け継がれた日本列島の支配体制が、透けて見えてきます。

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弥生の後進地域は東京・横浜

 直方平野を原点とする稲作文化の広がりを図示します。北部九州から対馬海流に乗って、山陰地方、北陸地方、更には東北地方の日本海側へと伝播します。その過程で、陸路によって瀬戸内海地域や近畿・東海地方などへと伝播しました。

 青森県まで達した稲作文化は、津軽海峡を抜けて太平洋側へ入り、千島海流に乗って南下します。関東地方への稲作文化の伝来は、一番最後でした。東京や横浜あたりは、弥生時代には最も遅れた地域でした。

 これは、縄文時代の関東平野は食料が豊富で、水田稲作の必要性が無かったとする説が有力のようですが、果たしてそうだったのでしょうか。単に、日本海を支配していた人々と敵対する別の勢力が存在していたので、新しい文化から取り残されただけだったのかも知れません。

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縄文人が主役

 水田稲作文化が日本海側を中心に一気に広がった理由は、以前の動画で考察しました縄文人による環日本海地域の支配という仮説と、完全に一致します。縄文人達が日本海を流れる海流を利用して、ダイナミックに航海していたからこそ、ほんのわずかの期間で日本列島全域に拡散したのです。

 水田稲作の技術は中国・長江から流れ着いた人々でしたが、この文化を広げたのは縄文人でした。なぜなら、流れ着いたばかりの中国人に、土地勘があるはずもなく、また、航海術という点でも縄文人の方が一枚も二枚も上手です。稲作伝来の一万年以上前から日本列島に住んでいた縄文人ですので、土地勘があっただけでなく、高度な文明やネットワークもありました。彼らが主役となって、水田稲作文化を日本列島全体に一気に広げて行ったのでしょう。

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弥生時代の階層構造

 弥生時代の階層構造としては、組織の頂点に縄文人、農業労働者として中国・長江から流れ着いた人々がいたと考えるのが自然に思えます。

 縄文人が支配していた中国大陸・沿海州や朝鮮半島へも、水田稲作伝播があったと考えられます。しかしながら、これらの地域の気候は、冷涼な上に降水量が少なく、水稲栽培に適した土地ではありませんでした。

 その地に住んでいた縄文人も、水田稲作文化という安定した食料確保に憧れていたのではないでしょうか。それは、出雲風土記の冒頭に記されている「国引き神話」に表れています。高志の勢力と共に、新羅や北方の二国が出雲国を造ったという神話です。

 その後も大陸にいた縄文人の子孫たちは「渡来人」として、徐々に朝鮮半島から日本列島に引き揚げていますが、それは水田稲作への憧れだったのかも知れません。