魏志倭人伝における邪馬台国への行路は、朝鮮半島の帯方郡(現ソウル市近郊)が始点となっています。
この地は中国・魏の支配下にあったとされ、ここを管理する役人が倭国の様子を調査したとする説が一般的なようです。
朝鮮半島に存在していた国々は、魏志東夷伝でそれぞれの風俗習慣が描写されていますが、倭人伝では行路のみの記述となっています。
今回は、帯方郡から狗邪韓国への航路の確認と、倭国と関係の深い朝鮮半島南部の弥生時代の遺跡について調査しました。
魏志倭人伝の邪馬台国への行路は、次のように始まっています。
「從郡至倭、循海岸水行」
郡より倭国に至るには、海岸にそって船で移動する。
「歴韓國、乍南乍東」
韓国を歴(へ)て、南へ行ったり東へ行ったりしながら、
「到其北岸狗邪韓國七千餘里」
其(そ)の北岸の狗邪韓国に到る、七千余里。
となっています。
「郡」とは帯方郡の事で、現在のソウル市近郊にあった中国・魏の出張所のような存在です。
魏の役人がこの地から出発して倭国・日本を目指したと考えられます。
朝鮮半島の西岸を沿うように船で移動して、南へ向かい、東へ向かい、狗邪韓国に到着します。狗邪韓国は北の海岸と記載されていますので、「倭国の領土の一部の北の端」という認識があったようです。ちなみに六世紀の白村江の戦までは、任那日本府が置かれ、倭国が植民地支配していた場所ですので、これとの整合性も取れます。
さらに狗邪韓国の次の行程では、
「始度一海千餘里、至對海國」
始めて海を度(わた)ると、千余里で対海国へ至る、とされていますので、現代の釜山市近郊がその地だったのは間違い無さそうです。
帯方郡から狗邪韓国へは、海岸沿いを船で移動しています。天候や潮流の変化などの条件が厳しい場合は、陸地に避難できるという、安全な地乗り航法です。また、海流の影響のほとんど無い海域ではあります。しかしながら、大型の古代船ではかなり困難だった事が推測されます。
それは数多くの小さな島々や細い半島が密集しているからです。この事は潮流速度が速く、潮流変化も頻繁に起こる事を意味します。日本での最も航海の難しい海が瀬戸内海である事からも察しがつくでしょう。もちろん、瀬戸内海のように10ノット(時速18.5キロ)もの激しい潮流は起こりませんが、それでも5ノット(時速9.2キロ)ほどの高速潮流は起こっています。これは対馬海流1.5ノットの三倍強のスピードです。
沿岸部を航海する地乗り航法とはいえ、これだけの潮流が発生する海域を古代の大型船で通過して行くのは、ほぼ不可能です。
前回の動画で対馬海峡横断の難しさを説きましたが、朝鮮半島沿岸部の航海もまた、大型船では無理でしょう。小回りが利いてスピードが出せる小型の丸木舟や、小型の準構造船を使っていたのではないでしょうか。
帯方郡からの魏の使者たちは、一人乗りか二人乗り程度の小船で、船団を組んで移動していたという事です。
その当時の朝鮮半島南部には三つの国々がありました。三国志の魏志韓伝によると、「辰韓」「馬韓」「弁韓」とされています。それぞれ新羅・百済・任那に相当します。
この中で弁韓・任那は、地理的にも歴史的にも倭国・日本と最も関係が深い地域です。七世紀の白村江の戦で倭国が唐・新羅連合軍に敗れ去るまで、この地域は日本の植民地でした。古墳時代の前方後円墳や、弥生時代の土器はもちろんのこと、それ以前の縄文式土器や日本産の黒曜石なども多数出土しています。
また弁韓に限らず辰韓や馬韓においても、日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土しています。これらは当然ながら糸魚川産の翡翠硬玉です。古来より朝鮮半島は邪馬台国・高志の国の支配下にあったと見る事ができます。
支配下というよりも、むしろ倭国の一部だったという方が正確でしょう。現代において、この半島に住み着いている残念な民族は、七世紀よりも後の時代にやってきた侵略者という事です。 魏志倭人伝の記述には、この地域は韓国とは区別して狗邪韓国となっています。さらに、倭国の北の岸と記述していますので、中国・魏の使者たちもこの地を倭国・日本の一部分と認識していた事が分かります。
朝鮮半島南部における弥生時代の主な遺跡を示します。なお、朝鮮語の読み方は意味がありませんので、表示のみとします。まず、日本列島から海を渡った弥生土器が発見された遺跡として、次の四ケ所などがあります。
昌原茶戸里遺跡
金海会見里 甕棺墓
金海池内洞 甕棺墓(副葬)
蔚山達川遺跡 住居(鉄鉱石鉱山)
また、弥生土器を真似して現地で作られた土器が発見された遺跡として、次の五ケ所などがあります。
金海興洞遺跡 住居?
金海北亭貝塚
釜山朝島貝塚
釜山温泉洞 表採
梁山北亭洞 古墳下層
これらの内、最も注目すべきはこの遺跡(蔚山達川遺跡)です。ここは、鉄鉱石の鉱山があった場所です。紀元前2世紀~紀元後3世紀頃まで採掘が行われていました。また、紀元前1世紀頃の北九州系の土器の出土もありますので、日本列島に輸入された鉄の多くはこの地で採掘されたと見られます。魏志東夷伝の弁韓の章にも、倭人たちがこの地域で鉄を取引していた様子が描かれていますので、それとの整合性も取れます。
なお古代の製鉄所は、国を亡ぼす「恐怖の工場」でしたので、弥生時代に日本国内には製鉄所を作りませんでした。植民地だったこの地域に危険物を押し付けていた倭国・日本のしたたかさが窺い知れます。
朝鮮半島の古代遺跡は、近年になってようやく保存管理がなされるようになりました。この地域が後進国である事と、住人の民族的な問題が影響しているようです。過去を否定する事を美徳とする民族ですので仕方ありません。
「辰韓」「馬韓」「弁韓」については、三国志の魏志東夷伝の他にも中国の史書に記載があります。一万年前の縄文時代から倭人が支配していた地域ですので、倭国と共通する興味深い記述も多々見られます。いずれ詳しく調査・研究して行きたいと思います。
今回で北部九州の旅は終わり、次回からは総集編に入ります。