古代出雲の東から西へ旅は、長門の国で終結しました。しかし、古代史において大変重要な場所が一箇所、抜け落ちていました。それは、隠岐の島です。島根半島の北方に浮かぶ群島です。この地で産出される「黒曜石」は、縄文時代に日本海を渡ってウラジオストクの遺跡から出土しているのです。
これは、邪馬台国・越前が日本海巡回航路を使って高句麗から鉄を入手していた、という仮説の強力な根拠になります。
隠岐の島は、島根半島の北方約60kmにあります。現在は島根県隠岐郡となっています。大きく島前(どうぜん)と島後(どうご)に分けられ、付属の小島は180ほどあり、隠岐群島(おきぐんとう)とも呼ばれています。
歴史的に流刑地として利用され、13世紀の後鳥羽上皇、14世紀の後醍醐天皇などが流された島として有名です。平安時代初期の『続日本紀』(しょくにほんぎ)にも記されている事から、奈良時代には既に流刑地だったのでしょう。
また、遣渤海使が漂着した記録も残っています。これは、奈良時代の中国東北部の渤海国への使者団で、越前・敦賀を起点とする中国大陸との公的な交流機関でした。
邪馬台国を考える上で、さらに弥生時代にまで遡ると、遺跡や墳墓が僅かながら出土していますが、それほど多くはありません。
対馬海流の通り道に浮かぶ小島なので、古代遺跡が豊富に思えますが、農耕地に適した土地が少ないせいか、弥生人が住むには不向きな土地だったようです。
この地図は、隠岐の島を拡大したものです。弥生時代の主な集落遺跡として、
月無遺跡(つきなしいせき)
東船遺跡(ひがしふねいせき)
竹田遺跡(たけだいせき)
西塔寺遺跡(さいとうじいせき)
などがります。稲作集落跡、青銅器、土器、石包丁などが出土していますが、特筆するほどの規模ではありません。
また、大城遺跡(おおしろいせき)からは、四隅突出型墳丘墓も発見されています。この事から、弥生時代には既に古代出雲の勢力下に置かれていたようです。
隠岐の島の古代史を語る上では、これらの弥生遺跡よりも遥かに重要な事があります。それは、隠岐の島は「黒曜石」の産地であるという事です。
黒曜石は、鉄器文明が広がる弥生時代までの貴重な石材で、世界的に各地で多く用いられていたものです。
黒曜石は、外見が黒く、割ると非常に鋭い破断面となることから、世界各地でナイフや鏃(やじり)、槍の穂先などの石器として、長く使用されていました。日本でも旧石器時代から使われていました。
日本での産地は、隠岐の島の他に、北海道遠軽町(えんがるちょう)、秋田県の男鹿半島、長野県霧ヶ峰周辺、伊豆諸島の神津島、大分県の姫島、佐賀県伊万里、長崎県内の各地などが知られています。
鉄器が普及していなかった旧石器時代から弥生時代までは、この黒曜石が貴重な刃物として活躍していたようです。
隠岐の島の黒曜石は、古代出雲の全域だけでなく、日本列島を離れた中国大陸や朝鮮半島でも出土しています。しかもそれは、邪馬台国時代よりも1800年以上も前の縄文時代に、日本海を渡っているのです。
中国東北部の沿海州の紀元前1500年~2000年頃の遺跡から、隠岐の島産の黒曜石が出土しています。現在のロシア・ウラジオストク周辺の三十数カ所の遺跡からの出土です。
出土した七十数個の黒曜石を解析した結果、その50%が隠岐の島産、40%が男鹿半島産だった事が分かりました。
これは日本が、まだ縄文時代だった頃の話です。
縄文時代は、原始的な丸木舟しかありませんでした。そんな時代に、沿岸部を航行する地乗り航法ではなく、陸地から離れた沖乗り航法で日本海を横断していたという事です。その距離約1000キロ。現代の常識では考えられない日本海の海洋交通があったという事です。
今回は、隠岐の島の黒曜石が、縄文時代には日本海の対岸の中国大陸へと輸出されていた事実を紹介しました。
時代をカウントすると、現代から1800年前が邪馬台国時代、3500年前が黒曜石の輸出という事になります。
この事実から、邪馬台国・越前が、日本海巡回航路を使って、高句麗から直接「鉄」を輸入していた可能性が、一気に現実味を帯びて来るのではないでしょうか。
次回は、古代史ファンタジーではなく現実に、邪馬台国が日本海を横断していた可能性について、各種の事例を参考にしながら考察して行きます。