長門の国の土井ヶ浜遺跡からは、弥生時代前期から中期の300体もの人骨が出土しました。殺傷痕のある「戦士の墓」や、シャーマンと思われる「鵜を抱く女」など、弥生人骨遺跡では、歴史と話題のある遺跡です。
今回は、この土井ヶ浜遺跡と、因幡の国の青谷上寺地遺跡の人骨を比較します。近年のDNA鑑定で、これまで謎に包まれていた弥生人の大陸からの流れが、徐々に解明されつつあるようです。
前回に引き続き、土井ヶ浜遺跡と青谷上寺地遺跡との比較を行います。
土井ヶ浜遺跡は、山口県下関市にある弥生時代前期から中期の人骨遺跡で、青谷上寺地遺跡は、鳥取県鳥取市にある弥生時代後期の人骨遺跡です。
数百年の時代差はありますが、地域差を含むその系統関係については、弥生時代の人種の推移を知る上で、貴重な参考資料になると思います。
まず、土井ヶ浜遺跡については、1930年の発見という、90年も前に見つかっている遺跡です。科学的な検証は、2009年頃にDNA鑑定が僅かに行われたようです。
青谷上寺地遺跡については、1998年に発見された比較的新しい遺跡で、2019年時点で科学的なDNA鑑定が進んでいる最中です。
二つの遺跡とも、科学調査が十分とは言えませんが、分かる範囲で推論を立てて行きます。
青谷上寺地遺跡のDNA鑑定については、南方アジアの稲作文化に起源を持つ弥生人のDNAのほかに、元々日本列島に住んでいた縄文人と、北方アジア系と見られる渡来人のDNAが確認されています。これは、以前の動画で紹介および考察していますので、ご参照下さい。
土井ヶ浜遺跡については、300体という大量の人骨出土ながらも、遺跡発見が90年も前である事や、青谷上寺地遺跡ほど保存状態が良かったわけではないので、DNA鑑定の個体数はほんの僅かです。2009年に状態の良い十数体の人骨について、ミトコンドリアDNA鑑定が行われています。傾向として、中国山東省の古集団の人骨に類似性がみられました。
これは、北部九州で発見された弥生人の人骨が、現代の日本人の主流と言える揚子江系の渡来人なのですが、これとは若干異なる傾向、という事です。
また、北方アジアのDNAが色濃く反映されている青谷上寺地遺跡の人骨とはかなり異なっています。
このように僅かな科学調査結果ながら、この二つの人骨遺跡から、次の事が推察されます。
まず弥生時代初期に、揚子江流域系の渡来人たちが、北部九州へ稲作文化と共にやって来ました。彼らは、元々日本列島にいた縄文人達と混血を繰り返しながら、列島全域に広がりました。
弥生時代中期には、山東省系の渡来人集団が対馬海峡を渡って、長門の国・土井ヶ浜遺跡の地域にやって来ました。
そして、さらに弥生時代後期には、高句麗・新羅という北方アジア系の渡来人集団が、リマン海流・対馬海流に流されて山陰地方各地に漂着しました。
なお、土井ヶ浜遺跡の人骨については、DNA鑑定が行われる以前は、北方アジア系の渡来人であろうという仮説が立てられていました。これは、因幡の青谷上寺地遺跡と同じような理屈でしたが、科学的な調査によって覆ってしまいました。また、シャーマンの骨とされていた「鵜を抱く女」も、DNA鑑定で、ただの「フクロウと添い寝する女」へと覆ってしまいました。
これらの比較結果から、最も重要な点は、長門の国には、北方アジア系の渡来人が来ていないという事です。長門の国を含めた北部九州の弥生人と、因幡の国・青谷上寺地遺跡に見られる古代出雲の弥生人には、明らかな相違点があるという事です。
これを鉄器の空白地帯と重ね合わせると、文明の流れがより鮮明になります。
長門の国から石見の国、そして出雲の国の西部地域が鉄器の空白地帯です。そして、出雲の国の東部地域から、邪馬台国・越前までが、鉄器の密集地帯です。
長門や石見は、農耕地がほとんど無く、弥生遺跡の空白地帯でもあり、それが鉄器出土の空白地帯と重なっている、という意見もあります。ところが、因幡の国も農耕地がほとんど無い弥生遺跡の空白地帯なのです。それにも関わらず、青谷上寺地遺跡という小集落遺跡からは多数の鉄器が出土しています。
長門の国の人骨遺跡から推測できるのは、弥生時代の九州と出雲以東とは異なった民族融合が起こっていたという事です。それにより、九州の鉄器は朝鮮半島南部から、出雲以東は中国大陸東北部から、という流れが透けて見えてきます。
これまでで、「出雲国」シリーズは、西の端の長門の国まで終わりました。しかし、一箇所気になる場所が残っています。島根県沖に浮かぶ隠岐の島です。そこは対馬海流の通り道にある場所なので、何らかの弥生遺跡がありそうです。