日本海を巡回する航路は、縄文時代には確立していましたが、それだけではなく、環日本海全域に縄文人が住んでいました。この事実は、弥生時代に起こった様々な事件を解き明かしてくれます。
記紀に記されている「神功皇后の三韓征伐」もその一つです。これは、邪馬台国の卑弥呼または壱与をモデルとした伝説とされていますが、信憑性に多くの疑問があります。
以前の動画では、越前・三国港から出港して、高句麗・新羅・百済を征伐したのではないか、との仮説を立てました。記紀の記述から一歩前進した仮説でしたが、未だ多くの疑問が残りました。
今回は、「環日本海全域に縄文人が住んでいた」という前提に立てば、この仮説の信憑性が大いに高まる事を示して行きます。
神功皇后の三韓征伐については、これまで何度も検証し、考察してきました。
記紀に記されているこの伝説が、実話を基に作られたとすれば、邪馬台国・越前の三国港を起点として征伐に向かった可能性が高い事を指摘しました。この中で三韓征伐は、「鉄の利権獲得」や「鉄の技術取得」を目的として、高句麗・新羅を制圧したと推測しました。しかしながら、幾つもの疑問が残っていました。
「日本海1000キロの大航海?」
弥生時代に1000キロもの日本海大航海が、果たして可能だったのでしょうか。
「目的・大義は?」
三韓征伐の目的は、「鉄」の利権獲得だけだったのでしょうか。そうであれば、征伐ではなく、交易でも十分と思われます。なんらかの大義があったのではないかと思われます。
「大規模な軍団のリスク?」
現代の戦争でも言える事ですが、敵国に上陸するには三倍の兵力が必要とされています。そのような大軍を率いての上陸作戦が可能だったのでしょうか。
「現地の土地勘は?」
右も左も分からない敵国に上陸したところで、途方に暮れるだけです。ましてや「紙」の無かった時代です。現地の土地勘を持った人々がいない事には、なんの成果も上げられなかったでしょう。
このうち、越前から高句麗への1000キロの大航海については、あっさり解決しました。
縄文時代には既に、奈良時代の遣渤海使と同じような「日本海巡回航路」が、利用されていた事が明らかとなりました。隠岐の島の黒曜石が4000年前のウラジオストク周辺の遺跡から発見されています。これは、弥生時代よりも2000年以上も前の時代です。神功皇后の三韓征伐の頃には、当たり前のように日本海大航海が行われていたことでしょう。
そのほかの三点の疑問については、「環日本海全域に縄文人が住んでいた」という前提に立てば、すべて解決します。
まず、三韓征伐の目的や大義です。
「鉄」の利権獲得という視点だけから考えると、リスクを冒して大軍を派遣する必要はなく、交易で十分だったでしょう。
仮に鉄の権益をめぐる戦いがあったとすれば、「倭寇」と呼ばれる略奪集団として、日本海沿岸地域を蹂躙していた可能性はあります。そうであれば、新羅・百済の征伐や、北部九州の熊襲征伐との関連は無くなってしまいます。
ここで、「環日本海全域に縄文人が住んでいた」という前提に立てば、三韓征伐に筋の通る大義が見えてきます。
そもそも原始人しかいなかった朝鮮半島や中国東北部に、縄文人が住み始めたのは4000年以上も前の事です。そして1000年以上もの長期間に渡って、縄文人たちが支配していました。狩猟を主な生業にしていましたので、人口は少なかったでしょうが、朝鮮半島の原始人よりは進んだ文化を持っていました。
やがて、2000年前頃になると、中央アジアで始まった遊牧の文化が、モンゴル・満州地域にまで広がり、高句麗という強力な勢力が出現しました。彼らは、馬に乗って大平原を移動する機動性の高い遊牧民族だっただけでなく、「鉄」という強力な武器を携えて、勢力範囲を拡大して行きました。
そんな時代の趨勢の中で、中国大陸を追い出されてボートピープルとなったのが、日本海沿岸地域に住んでいた縄文人たちの一部だったと考えられます。彼らは、出雲や高志などの日本列島の日本海沿岸地域への帰還を余儀なくされました。縄文人たちが日本に帰って来たという根拠は、因幡の青谷上寺地遺跡の弥生時代の人骨です。全ての人骨が縄文人と大陸人との混血であると、DNA鑑定結果が証明しています。
神功皇后の三韓征伐は、このような時代背景の中での出来事です。元々、縄文人たちの土地であった場所を奪還するのが、最大の目的だったとすれば、「鉄」の権益よりも遥かに大義が成り立つのではないでしょうか。また、ボートピープルが一世紀~三世紀頃、三韓征伐が三世紀頃ですので、時代的にも整合します。
もちろん、鉄の権益取得や、鍛冶職人を連れ帰ったなどの二次的な利益もあったでしょう。しかしそれは、主たる目的ではありませんでした。
邪馬台国・越前は、高句麗によって奪われた土地の回復だけでなく、遊牧民族の影響で反乱を起こした新羅や百済の鎮圧や、倭国大乱とみられる北部九州の熊襲征伐にも、影響力を行使しました。そして、この事件によって、環日本海全域の支配が強化されていったのでしょう。
なお、女性である神功皇后自身が先頭に立って戦ったかどうかは疑問ですが、少なくとも、邪馬台国のトップが女性だったことを示唆していると考えられます。
このように、「環日本海全域に縄文人が住んでいた」とすれば、三韓征伐に向かった大義は「失地回復」という単純明快な理由が透けて見えてきます。
神功皇后伝説と、古代出雲とは直接の接点はありません。しかし、隠岐の島の黒曜石を起点として、縄文時代から脈々と連なる環日本海文化を考察する上では、出雲、高志、新羅、百済、任那は、すべて倭人(縄文人)の国、という共通点があります。
縄文時代からの歴史を考察する事で、弥生時代の多くの疑問が晴れて行くでしょう。
今回は、三韓征伐に対する疑問の「大義」についてのみ考察しました。
次回は、環日本海全域に縄文人が住んでいたという前提に立って、
「大規模な軍団のリスク?」
「現地の土地勘は?」
という疑問について解明して行きます。