日本史上初のスパイ

 越前・邪馬台国から出現した謎の大王 継体天皇

卑弥呼の時代から、朝鮮・九州・出雲との交流は多かったものの、宿敵である近畿・狗奴国との交流はありませんでした。敵の状況を知らずして、むやみに攻め込んだところで、返り討ちにあってしまいます。

 日本史上、初めての諜報機関(スパイ)が、この時代に現れます。近畿・狗奴国の中心に近い河内の、馬の繁殖を生業とした一族でした。彼らは、新羅系の渡来人です。越前・邪馬台国の男大迹王(継体天皇)とは、蘇我氏をトップとする渡来人ネットワークで結ばれていました。

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スパイの名は、河内馬飼首荒籠。

 スパイの名は、河内馬飼首(かわちうまかいのおびと)荒籠(あらこ)です。

馬飼を生業とする一族の首長です。近畿の河内北部で、馬の繁殖・生産に当たっていました。この場所は、現在の大阪府枚方市で、継体天皇が即位した際に、最初に都を置いた場所・樟葉宮です。

 日本書紀によると、三世紀の越前の女傑・神功皇后が、新羅から連れてきた部族とされています。しかし、実際に馬が近畿に入って来たのは、五世紀頃ですので、継体天皇が近畿侵略するのと同じ時期に、このスパイも近畿に潜入したものと見られます。

 このスパイ・河内馬飼首(かわちうまかいのおびと)荒籠(あらこ)は、馬を繁殖・生産して、近畿の豪族達に貸し出す仕事をしていました。

 必然的に、近畿・狗奴国の内部事情に精通し、その情報が、渡来人ネットワークで越前の継体天皇に届いていたようです。

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当時の馬は、重機のようなもの。

 そもそも五世紀の近畿地方は、豪族達が競うように巨大古墳の造成を行っていた時代です。馬が朝鮮半島から伝来するまでの土木作業は、人力だけで行っていました。豪族達は、「馬」という強力な道具を、競うように欲しがったに違いありません。現代で例えるなら、土木工事にブルドーザーやダンプカーが必需品であるようなものです。

 そんな中で現れた渡来人の馬飼職人・河内馬飼首(かわちうまかいのおびと)荒籠(あらこ)は、非常に重用されたことでしょう。・・・彼が越前からのスパイである事も知らずに。

 当然ながら、重要豪族たちの内部事情も、荒籠の耳にいくらでも入ってきたはずです。

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馬の需要は大きかった。豪族達から情報をたくさん得られた。

 この時代の近畿・狗奴国は、一見、黄金時代で日本の中心だったように思えます。ところが実際は、領土を全国に拡大する事をせず、内部での権力抗争や、殺し合いに明け暮れていました。敗れた豪族達は周辺諸国に逃れて、前方後円墳などの近畿文化は広がったものの、領民たちや周辺諸国からの反感は最高潮に達していました。

 この様な状況にあって、越前の男大迹王・継体天皇に逐一情報を提供したのが、スパイ・河内馬飼首荒籠です。近畿・狗奴国の軍事力や文化レベル。領民たちの不満や混乱の状況。守旧派の葛城氏と、改革派の大伴氏や物部氏との対立。そういう情報を越前に運び、侵略すべき好機であることを男大迹王に告げたのでしょう。

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近畿の内部抗争などの情報は、逐一、越前に伝えられた。

 いよいよ軍を興すに及ぶと、その道案内の役を担い、自らの一族の居住地である樟葉宮に導き、そこを総司令部の場所として提供したのです。男大迹大王が継体天皇として即位して、最初に都を置いたのも、この樟葉宮でした。

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兵を興して、近畿侵略。最初の都は、スパイの拠点、樟葉宮。

 馬の生産・繁殖は、土木工事や農耕作業だけでなく、交易の範囲を大きく広げました。それまでは、遠隔地との交易は船に頼っていましたが、馬を使った陸路という手段が増えました。周辺諸国の産品を近畿の市場に運び、また、それらの市場で仕入れた品を遠い諸国へ運んで、利益を得ました。そうした馬飼たちは周辺諸国でその土地の情報を耳にし、その情報はまた、中央の継体天皇の下に集まってくるようになりました。

 このような周辺諸国との交易の拡大が、継体天皇の曾孫の聖徳太子が推し進める中央集権国家体制の確立につながって行ったのです。

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輸送手段は、船だけでなく馬による陸路も開拓された。聖徳太子の中央集権国家へとつながって行く。

 継体天皇は、河内馬飼首(かわちうまかいのおびと)荒籠が持っている諜報機関(スパイ)としての機能の重要性を、いち早く認識して、深い交流を持っていました。

 それは、馬の繁殖技術に優れた一族を重要視した交流はもちろん、渡来人ネットワークでつながった交流だったのかも知れません。

 継体天皇の重臣だった蘇我氏一族、秦氏一族、紙の生産に関わった一族、彼らは皆、渡来人たちだからです。

 もしかすると、継体天皇自身も渡来人だったのかも知れません。