前回までに、卑弥呼の墓を断定した経緯をご説明しました。この根拠に基づいて、現在、発掘プロジェクトを進めています。ただし発掘といっても、やみくもに現地を掘り返せばよいものではありません。現況をしっかり把握した上で、試掘を行う必要があります。現段階では現地の資料が乏しく、下準備をするにもファンタジーとなってしまいますが、一般的な墳丘墓の組成や構造などから、検討していきます。そこからは、魏志倭人伝に記された「冢」という実態が見えてきます。
丸山古墳の状況を、次の視点から分析して行きます。
・この古墳が使われた履歴 歴史を遡ります
・大きさや形
・断面から見る構造
・盛土か切土か、という問題を、
・日本全国の大型弥生墳丘墓のサイズ
・類似する近くの小山
・雪国の土木工事の困難さ
などから推測します。
まず、歴史的にこの地がどのように利用されて来たかを調べました。
近い時代では、丸山古墳の頂上部には水道貯水池が1954年に建造。南側に神社が江戸時代に建立され、現在も存在しています。それ以前には、室町時代初期の南北朝時代・西暦1330年頃に、砦が築かれた記録があります。南朝方の新田義貞軍を追い詰めた足利の軍勢が、この地に陣を構えたとなっています。
不思議な事に、丸山古墳を利用して建造物を作った記録はありませんでした。べったりとした平地に、ポツンと佇む小さな山なので、戦国時代に頂上部に物見櫓が作られたり、江戸時代に平城が築城されたりしていても不思議ではありません。360度パノラマが開けていますので、絶好地に思えます。ところが、そういう記録は全くありませんでした。
また、現在も存在している神社の場所が、山の頂上ではなく中腹の踊り場のような場所にあるのも不可解です。
あたかも頂上に建造物を建ててはいけないという不文律でもあったかのようです。
次に、大きさや形です。
この地図は、卑弥呼の墓・丸山古墳を拡大したのもです。
頂上には、上水道用の貯水池があり、南に少し離れた場所に神社があります。
形は、円形を南北に少し細長くした楕円形です。
大きさは、最も長い部分で150メートル、短い部分で120メートルほどです。
高さは、頂上にある水道貯水池の場所で、標高55メートルで、神社の場所で、標高35メートルです。平地の標高が10メートルですので、実際の高さは、貯水池で45メートル、神社で25メートルとなります。
現在の状況は、これらの施設以外は、雑木林で埋め尽くされています。
次に、丸山古墳の断面構造について検討します。
これは、最も長い辺の断面図です。水道貯水池は標高55メートルの場所にあり、神社は南に50メートル離れた標高35メートルの場所にあります。
神社が踊り場のような場所に建てられていますが、これは丸山が元々そういう形状だったと推測します。神社の為にわざわざ山の中腹を削って踊り場を作るくらいなら、頂上の平らな場所に建てるでしょう。最初から中腹のこの場所に一定規模の平らな場所があって、江戸時代に地元住民の集会場の役割があったからこそ、その場所に神社が建立されたと想像します。
とすれば、丸山古墳の形状自体が、単純な円墳ではなく、ほかの何かだった可能性があります。
まあるい山と、平べったい丘。円墳と方墳。そうです、前方後円墳の原型だった可能性です。
実際に、近畿地方の平野に巨大な前方後円墳が出現するよりも100年前の三世紀前半には、北陸地方から北部九州に掛けての日本海側地域に、山を掘削して造られた小型の前方後円墳がありますので、この丸山古墳も前方後円墳の先駆けだったのかも知れません。
この丸山古墳の組成はどうなっているのでしょうか?
周辺の土を集めて盛り土によって作られたものか、元々存在していた小さな山を切土して作られたものか、という問題です。
地質調査が行われていないので、正確には分かりませんが、弥生時代の墳丘墓のサイズ、近隣の類似する小山、そして、雪国での墳丘墓の土木工事の実情などから、推測します。
まず弥生時代の墳丘墓の規模からの推測です。日本全国を見渡しても50メートルを超えるものは、ほとんど見当たりません。最大級のものでは、北部九州の吉野ケ里遺跡の方形周溝墓が縦46メートル、横27メートル。山陰地方の四隅突出型墳丘墓が縦40メートル、横30メートル。丹後地方の方形周溝墓が縦39メートル、横30メートル。北陸地方の四隅突出型墳丘墓が縦30メートル、横27メートル。という規模です。
また、丸山古墳の近くでは、1キロ離れた原目山墳墓群に、一辺が20メートル規模の方墳が2基あります。これらはいずれも方墳です。円墳で大規模なものは、日本全国どこにも存在しません。
このように、弥生墳丘墓は古墳時代に比べてまだまだ小型でした。従いまして、丸山古墳は卑弥呼の死亡に際して、新たに造成したものではなく、既に存在していた小さな山をお墓として利用した可能性があります。
一方、丸山古墳の近くには、類似する小さな山が存在していた事実をつかみました。
この地図上では、丸山古墳から南西方向へ500メートルの地点にありましたが、現在では存在しません。1970年頃に隣にある病院の敷地を拡大する為に、掘削して消滅させてしまいました。
この小山の名前は平岡山で、丸山古墳と同じくらいの規模だったようです。
形は名前の通り平べったく、この図面のようにイビツな形状をしていました。
組成は、盛り土によって造られたお墓ではなく、小さくとも「山」だった事が分かっています。それは、明治時代に建築資材としての石を切り出す場所だったからです。岩石で出来た場所ですので、盛り土によるお墓ではなく、山に間違いありません。
このように、すぐ近くに存在していた同じような小山が、岩石で出来ていた事を考えれば、丸山古墳もまた、内部には岩石で出来たイビツな山があり、それを成型して円形の形に整えたと見るのが自然でしょう。
なおこの平岡山からは、弥生時代の出土品があったという記録はありませんでした。その点では、丸山古墳と一線を画しています。
次に、雪国での墳丘墓の土木工事です。
古代に於ける巨大なお墓の造成は、農業の収穫が終わる晩秋から冬に掛けて行われるのが一般的です。太平洋側であれば、その時期は一年で最も降水量の少ない穏やかな天気が続きますので、土木工事にはもってこいの季節です。ところが日本海側では全く逆です。
11月頃になると、日本海の水蒸気をたっぷり含んだ北西の季節風が吹き始め、雨や雪の悪天候が続きます。土砂には水分がたっぷり含まれて重量は重くなり、運搬が大変です。現代のように道路が舗装されている状態であればまだしも、当時の舗装されていない道はぬかるんで、運搬作業はままなりません。そもそも作業をする人々は寒い中で濡れネズミになりますので、作業効率は格段に落ち込むでしょう。また、牛や馬が伝来していない時代です。重量物の運搬は人力だけに頼っていました。
そんな雪国の状況において、丸山古墳のような100メートルを超える円墳が造成されたとは、到底考えられません。
もし弥生時代にこのような大規模な円墳が造成されていたとすれば、次の古墳時代においても大型の古墳が造成されている筈ですが、そのようなものは福井平野のどこにも見当たりません。
これらの事から、卑弥呼の墓・丸山古墳は、元々存在していた小さな山を利用したものと推測します。
あらためて魏志倭人伝を読んでみると、
「大作冢 徑百餘歩」
大きく墓を作る。径百餘歩とあります。ここで、墓を意味する冢(ちょう)の文字は、現代では塚という漢字に統合されています。
1800年前の中国でのこの文字の意味合いが、現代と同じようなニュアンスであるとすれば、単なるお墓ではなく、丘のような小山に埋葬したという事になります。そうすれば、小さな山が土台になっている丸山古墳は、魏志倭人伝の記述にも一致する事になります。
丸山古墳の頂上部から発見された土器は、ただの生活用の器ではなく、祭祀用の器台です。卑弥呼は頂上に立って祭事を執り行っていたのでしょう。そして彼女の死亡とともに、この地に遺体が埋葬されたのでした。被葬者が例え卑弥呼ではなかったとしても、この場所になんらかの大王が眠っている事は間違いないでしょう。
次回は、この祭祀用器台が発見された頂上部を中心に、弥生時代の棺の埋葬方法など、丸山古墳を発掘調査するに当たっての基本的な戦略を考察します。