卑弥呼の墓④ 推定から断定へ

 前回までに、私が卑弥呼の墓を見つけ出し、推定に至った経緯を述べました。しかし、時間を掛けて調査したにも関わらず、推定した場所からの弥生時代の遺物の発見情報はありませんでした。それでも懲りずに調査を継続していたところ、ついに天使が舞い降りて来ました。奇跡です。結論ありきの調査だったにも関わらず、思い描いた通りの出土品が見つかったのです。

 今回は卑弥呼の墓の場所が、推定から断定へと進化した経緯を述べて行きます。

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周辺遺跡

 この地図は、越前・福井平野の拡大図です。

まず、遺跡の分布を示します。全国的に有名なところでは、邪馬台国時代の鉄器出土数が日本一多い林藤島遺跡や、60基以上の大規模弥生墳丘墓が発見されている原目山墳墓群があります。また、日本最古という枕詞がつく出土品の多い松岡古墳群もこの地域です。

 このエリアから、卑弥呼の墓の推定地を見つけ出しました。丸山という名前の直径百メートルほどの円形の山です。サイズ的には、魏志倭人伝に記されている「徑百餘歩」と完全に一致しています。この丸山からの出土品を調査する中で、さらに貴重な遺跡を見つけ出しました。邪馬台国時代の神殿跡の可能性がある丸山釜山遺跡と、畔を作る矢板が見つかった水田遺構の新保遺跡です。これらは丸山を取り囲むように存在しています。この時点で、状況証拠としては80%でしょう。

 問題は、丸山自体に弥生時代の遺物が見つかっていない事でした。神奈川県の埋蔵文化財センターに収納されている大量の発掘調査報告書からも、根拠となる資料は一切見つかりませんでした。

 それでも諦めきれず、この地を卑弥呼の墓であるとの結論ありきで、調査は継続しました。

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地図

 まず、この地の現在の状況です。

この地図は、丸山を拡大したものです。頂上部に上水道の貯水池があり、南側に神社があります。

貯水池は、1954年(昭和29年)に建設されたもので、現在は立ち入り禁止となっています。

また、神明神社という名前の神社は江戸時代に建立されたことになっています。こちらは一般的な神社と同じように、自由に立ち入る事ができます。なお、やってはいけない事ですが、神社から頂上の貯水池に繋がる獣道があり、こっそり立ち入る事ができるようです。

 2018年に実際に現地取材して、動画を作成していますので、ご参照下さい。

 状況としては、貯水池で65年、神社で200年程度ですので、一見古そうに思えますが、邪馬台国は1800年前ですので、それから見ると極めて新しいものと言えます。

 そこで、これらの施設ができる前は、どういう状態だったのかを調べました。

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丸山周辺の歴史

 この地に伝わる歴史から勉強しました。

残念ながら卑弥呼の墓という言い伝えは残っていませんでしたが、なかなか興味深い歴史がある場所だと分かりました。一言で言えば、「敗者の歴史」です。

 伝承は鎌倉時代から始まります。

 京都において、源義経が兄の源頼朝との権力抗争に敗れ、都落ちした際に、武蔵坊弁慶が担いできたのがこの丸山である。という伝承です。伝承ですので支離滅裂です。

 歴史的事実では、

 京都において、比叡山延暦寺から迫害された禅宗の元祖・道元禅師が、都落ちして、この地を治めていた領主・地頭に救われたそうです。永平寺という曹洞宗の大本山が作られたのは、この近くです。

 室町時代の初期の南北朝の時代には、足利尊氏との権力抗争に敗れた新田義貞が、都落ちしてやって来て、命を落としたのが、このエリアだそうです。

 戦国時代には、美濃の国の権力抗争に敗れた明智光秀がやって来たのが、このエリアだそうです。

 また同じく戦国時代に、織田信長によって大虐殺が行われた越前一向一揆の門徒たちは、このエリアの住民たちだったようです。

 なんだか権力抗争で敗れた話ばかりですが、それだけ場所が越前の中心地的な役割があり、抵抗勢力だったのかもしれませんね。

 なお、飛鳥時代に滅亡した蘇我氏は、邪馬台国であるこの地域の出身です。邪馬台国が歴史から消された理由は、飛鳥時代の藤原氏と蘇我氏との権力抗争だと推測していますので、その時代からの敗者の歴史が繰り返されているようなファンタジーを感じます。

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地元の認識

 次に、丸山に対する地元の人々の認識です。ハッキリ言って、完全に意識の外。つまり無視されている山のようです。

平地にポツンと佇む小山ですので、普通であれば何らかの伝説や物語の題材になっていたり、信仰の対象になっていたり、古墳としての意識があるものですが、そういうものは一切ありませんでした。

 それを裏付ける情報が、地元の方のお話にありました。

 丸山の近くにお住まいの方のブログに、面白い記事があったのです。ここでは、その方をAさんとします。

 Aさんによれば、息子さんが小学生の頃、この山に疑問を持たれてAさんに質問したそうです。

「丸山って何?」

Aさんは、何の根拠もなく、即座にこう答えました。

「そんなもん、古墳じゃ!」

息子さんは、早速この事を小学校の先生に話しました。すると、先生は、

「丸山が古墳のわけがない!」

と、頭ごなしに否定したそうです。失礼な先生ですねぇ。

古墳ではないのなら、先生が自分で調べるなりして何らかの答えを出せばよいものの、それも無かったとの事です。

 このように、地元の学校の先生ですらこの場所が古墳だとは知らず、それどころか何の認識もされていないという事が、よくわかりました。

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中学生の研究

 卑弥呼の墓・丸山が、本当に古墳であると分かったのは、地元のある中学生が作成した模造紙でした。

 それは、福井市文化財保護センターという施設を見学した時の事です。ここは地元密着型の古代史・博物館のような場所で、地元の遺跡からの出土品を保管・管理したり、土器類の展示や勾玉などの製作実習なども行っています。また、弥生土器に直に触る事もできるという、なかなか面白い施設です。詳細は、2018年に作成した動画「卑弥呼の土器に触ってきた」にて紹介していますのでご参照下さい。

 この施設の中に、地元の中学生が作成した研究発表の模造紙があり、その中で丸山に関する記事があったのです。

 丸山は丸山古墳とされており、時代は弥生時代末期から古墳時代初期という、まさに邪馬台国時代となっていました。そして出土品は、祭祀用とみられる器台形の土器です。

まさにその情報が欲しかったのです。願ったり叶ったりです。

ようやく丸山古墳が、卑弥呼の墓だと断定できた瞬間でした。ありがとう、中学生の君!

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文化財保護課

 このように地元の中学生の研究資料から、出土品の情報を得たものの、まだ課題は残りました。それは、中学生が見つけ出した弥生土器の情報は、どこから出て来たものかが分からなかったのです。正式な発掘調査報告書には一切記されていないので、それ以外のどこからの情報なのでしょうか?

 その答えは案外早く訪れました。「卑弥呼の墓・発掘プロジェクト」を開始するに当たって、福井市文化財保護課へ連絡を取って、尋ねてみました。すると、わずか一週間ほどで回答がありました。

最初からそうしておけば良かったのですが・・・。

 卑弥呼の墓・丸山古墳から出土した祭祀用器台の弥生土器は、1990年出版の「福井市史 資料編1 考古」という福井県でしか見ることの出来ない資料でした。1954年(昭和29年)の水道貯水池工事の際に、偶然、発見されたようです。出土品はこの一点だけで、正式な発掘調査は行われていないとの事でした。

 もしかすると、卑弥呼のお宝がどっさり眠っているのではないのか? 妄想は膨らむばかりです。

 ちなみに、福井市文化財保護課さんは、中学生の模造紙が貼ってあった福井市文化財保護センターと同じ組織だと、後で知りました。2020年のプロジェクト立ち上げで、最初に面会して頂いた方々が働いている職場が、まさにそこでした。

 面会の結果は惨憺たるものでしたが、どこの馬の骨とも分からない私ごときと会って頂けただけでも感謝しています。いつか協力して発掘調査が出来る日を夢に見ています。

 丸山からは邪馬台国時代の遺物があるはずだ、という結論ありきの調査でした。普通であれば、弥生時代どころか、奈良時代や平安時代、室町時代や江戸時代あたりのお皿の出土品があれば良い方なのですが、ピンポイントで邪馬台国時代で、しかも祭祀用の出土品があったのには驚きでした。

 これで、丸山古墳が99%卑弥呼の墓であるという確証を得る事ができました。

次のステップは、実際に発掘してみる事です。さて本当に卑弥呼の棺が出てくるや否や?