卑弥呼の墓を見つけ出す順序として、
1.弥生時代の大型墓の全国的な分布調査
2.邪馬台国での大型円墳の調査
を行いました。そして、弥生遺跡の密集地帯の近くに、直径100メートルの円墳がある事を突き止めました。まさに魏志倭人伝の「徑百餘歩」です。しかし円墳の大きさだけでは、まだまだ空想に過ぎません。卑弥呼の墓と比定するわけには行きません。
今回は、この円墳から邪馬台国時代の土器が出土していた事実を突き止める一歩手前、推定までの経緯です。
前回の動画からの続きになります。この地図は、邪馬台国・越前を拡大したものです。
ここは弥生遺跡の密集地帯になっており、その中に直径100メートルほどの小さな山が存在しているのを発見しました。平野の中にポツンとです。
これは意外でした。越前は雪国ですので、平野部に大きなお墓が存在するはずがない、という先入観に囚われていたからです。豪雪地帯では、農閑期の秋~冬にかけては、非常に天気が悪くなります。その為、大がかりな土木工事が必要な平野部での墳丘墓の造成は有り得ないと考えていました。ましてや、弥生時代という牛も馬もいなかった時代には、太平洋側のように冬の天気が良い地域でさえも、平野部に大きな墳丘墓は存在しません。
常識に囚われる事は怖いものです。何度も同じ地図を見ながら、この直径100メートルほどの山の存在には、全く気が付きませんでした。
さて、この場所は、邪馬台国時代の鉄器出土数が日本一多い林藤島遺跡から南西方向へ1キロ。また、原目山墳墓群という64基もの弥生墳丘墓が発見されており、豪華な副葬品も多数出土している場所からも、西へ1キロの地点です。そのほかにも、弥生時代中期から古墳時代後期までの多彩な遺跡群が発見されている松岡古墳群も存在しています。
魏志倭人伝に記された「徑百餘歩の円墳」というには、地理的はピッタリです。少し楕円形ではあるものの、ほぼ円墳の形をしていますし、顕著な弥生遺跡の出土地からも近い場所ですので、状況証拠だけならば、卑弥呼の墓と呼んでも差し支えないでしょう。
しかしながら、重要な要素が欠落していました。弥生時代の遺物が出土したという記録が無かったのです。
早速、この小さな山からの出土品の調査にはいりました。現地では「丸山」と呼ばれているので、この地名を手掛かりに、発掘調査報告書を調べました。現在は便利になったもので、神奈川県に居ながら、福井県の発掘調査報告書を調べる事が出来るのです。
私の自宅近くの横浜市南区には、「神奈川県埋蔵文化財センター」があります。ここには、神奈川県で発掘された大量の古代遺跡の出土品が貯蔵されており、特別展などで博物館に貸し出されています。同時に、日本全国各地で活動を行った発掘調査報告書が収納されており、誰でも無料で閲覧できるようになっています。ありがたい事です。
発掘調査報告書の概要は、データベース化されており、パソコンで遺跡の名前を検索すればどの報告書に詳細が書かれているかがすぐに分かります。
ところが、「丸山墳丘墓」とか「丸山遺跡」、「丸山古墳」と検索しても全く該当する遺跡は出てきませんでした。
そこで、書庫の中に格納されている膨大な量の報告書を実際に開いて調べる事にしました。報告書は、縄文時代から明治時代に至るまでの、様々な時代の物がぎっしりあり、都道府県ごとに整理されています。幸いにも福井県の報告書は非常に少なかったです。47都道府県の内、最も少ないように感じました。これは、古代遺跡が少ない、あるいは発掘調査に熱心ではないと言えるかも知れません。あるいは、開発工事が少ないために、調査件数自体が少ないという事なのかも知れません。そうであれば、いまだに手付かずの古代遺跡が、大量に眠り続けているという事をも意味しています。
そんなこんなで報告書を読み漁ったのですが、結局、福井県の丸山に関する発掘調査記録は、どこにもありませんでした。
卑弥呼の墓の根拠を見つけ出すという点では、収穫はありませんでしたが、思わぬ副産物はありました。瓢箪から駒です。
それは、この地域の遺跡には、とても個性的なものが多い事が分かったのです。
まず、丸山から3キロ離れた花野谷一号墳からは、中国・前漢時代の銅鏡、「連弧文銘帯鏡」の出土がありました。これは紀元前一世紀のものです。紀元前の中国と日本との交流は、とかく北部九州に限られていると思われがちですが、北陸のこの地にまで交流が及んでいたのです。邪馬台国時代よりも300年も前のものです。
また、松岡古墳群からの出土品も秀逸で、弥生時代末期から古墳時代中期に掛けての様々な遺物が出土しています。大量の鉄の刀や、宝石類はもちろんのこと、最古級の前方後円墳もありました。もしかすると、前方後円墳の起源は近畿地方ではなく、日本海側で原型が作られ、その文化が近畿地方へ流出したのではないでしょうか。
さらには4世紀の遺物ですが、日本最古の金の冠、銀の冠も、出土しています。邪馬台国時代よりも後のですが、日本で最も古い強力な王族が、この地に存在していた事の裏付けになります。5世紀~6世紀に継体天皇という越前に出自を持つ大王が出現したのは、こういう下地があったからに他ならないでしょう。
それにしても、これだけの顕著な遺跡や出土品がありながら、どうして福井県はもっとアピールしないのか、それが不思議です。
神奈川県埋蔵文化財センターでの調査では、別の副産物もありました。それは、卑弥呼の墓と比定した丸山という円墳の、周辺の発掘調査報告書を見つけた事です。
具体的には、丸山釜山遺跡、および新保遺跡という邪馬台国時代の遺跡です。
丸山釜山遺跡は、丸山のすぐ脇から見つかった遺跡です。邪馬台国時代の建物遺構が特徴的で、柱の穴が多数見つかっています、また、管玉などの威信財の出土もあります。弥生時代の住居は竪穴式が一般的ですが、その場合、このような柱の穴はありません。神殿跡のような大規模建造物がこの円墳のすぐ脇に聳え立っていたと思われます。(写真)
また新保遺跡では、邪馬台国時代の水田遺構が見つかっています。畔を仕切る為の矢板などが出土しているのです。この時代の水田遺構というと、無数に発見されていると思われがちですが、そうではありません。
弥生時代末期の大規模拠点集落では、奈良県の纏向遺跡、鳥取県の妻木晩田遺跡、佐賀県の吉野ケ里遺跡が有名ですが、これらは丘陵地に立地しており、水田遺構はほとんど発見されていないのです。
丸山周辺には、宮殿跡や水田遺構の他にも、多くの弥生遺跡が存在している事が、発掘調査報告書の閲覧から明確になりました。
繰り返しになりますが、どうして福井県はもっとアピールしないのか、それが不思議です。
直径100メートルの丸山の周辺には、この様に邪馬台国を連想させる遺跡が満載です。しかし、肝心の丸山自体に弥生遺跡の記録が見つかりません。これでは、いくら卑弥呼の墓であると主張したところで、誰にも相手にされません。
2018年に、この丸山を散策した動画を製作したのですが、この時点では、大きさが一致している事以外には、根拠となる弥生時代の出土品が見つかっていませんでした。この時点では、ネットで「飛鳥時代の土器が発見された」という記事があったので、それを鵜呑みにして、邪馬台国時代の出土品は無かった、として紹介しています。
後にこの記事はフェイクニュースだった事が分かりました。そして、ついに邪馬台国時代の遺物がこの丸山から発見されていた事実を突き止めたのです。
このように、埋蔵文化財センターでの調査では、卑弥呼の墓の比定には至りませんでしたが、多くの新たな知識を得る事ができました。そして、邪馬台国の場所が越前である事を確信するに至りました。また、卑弥呼の墓が丸山であるとの空想が推定へと進化しました。次回は、推定に過ぎなかった状況証拠が、断定へと変化した経緯です。
地道に調査活動を続けて行くと、何かのタイミングで「ポン」と答えが出てくるものです。紆余曲折ありながら、ようやく丸山古墳からの土器出土の事実を突き止めたのでした。