投馬国・丹波を過ぎると、次は終点の但馬の国に至ります。但馬は、投馬国の中では最も水田稲作に適した土地です。弥生時代の遺跡としては、すぐ隣の丹後半島には劣りますが、国力としては、この地域で最強だったと考えられます。また、投馬国の鉄器技術が、近畿地方へ漏れ出したのはこの地域だったと見られ、「鉄の道」という表現で近畿への流出が語られる事もあります。
今回は、但馬の国の農業や遺跡などについて、調査・考察します。
目的である邪馬台国・越前から、投馬国までの陸路を再確認します。
前回までに、越前から若狭を通過して、投馬国の一部だった丹後・丹波を通過しました。
今回は、丹波の福知山盆地から渓谷を縫うように進み、但馬の国・豊岡盆地に入ります。ここが投馬国の終点です。
この地図は、但馬の国を拡大したものです。
兵庫県豊岡市を中心とした南北約14km、東西約4kmと楕円形に広がる豊岡盆地が、但馬の国です。周囲を低い山地や丘陵地に囲まれていて、中央部を円山川(まるやまがわ)が流れ、日本海に注いでいます。
この盆地の特徴は、日本海から15キロもの内陸に位置しているにも関わらず、海抜が5m程度と非常に低いことです。海岸線が内陸部にまで入り込んだフィヨルドのような地形で、外海の波の影響が非常に少ない天然の良港です。
縄文海進の頃は、入江となり、その後淡水湖、そして沖積平野となりました。平坦で水はけの悪い土地で、大規模水田稲作には絶好の土地です。そういう意味では、越前・福井平野と同じで、弥生時代の大国が出現する条件を満たしています。
現代でも、山陰地方有数の穀倉地帯となっています。
但馬の国からは、旧石器時代から近世までの広い範囲の遺跡が発見されています。
弥生時代に絞ってみても、多くの遺跡や墳丘墓跡が発見されています。
東山墳墓群・立石墳墓群は、弥生時代末期の墳墓群で、鉄製品・ガラス玉類など、副葬品が多数出土しています。
また、弥生時代の高地性集落跡や、管玉の原料となる碧玉の大きな鉱脈も発見されています。豊岡市近郊では、ヱノ田遺跡・大市山遺跡・女代(めしろ)神社南遺跡など弥生時代中期の玉造工房も発見されています。
袴狭遺跡では、小型の準構造船の船団線刻画が見つかっています。邪馬台国の一団が、対馬海流に逆らって出雲や九州へ航海する場合、地乗り航法となりますが、それを明確に証明する出土品と言えます。
但馬の国は、「鉄の道」の玄関口とされる事もあります。これは、高句麗や新羅から伝来した鉄器が、近畿地方へ流れ込んだ事に由来しています。投馬国・但馬から中国山地を越えて、近畿地方に鉄器技術が伝来したという説です。近畿地方で最古の鍛冶場跡は、淡路島にある五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)です。この遺跡へ、但馬の国から伝わって行ったという考え方です。確かに、弥生時代においては瀬戸内海航路が確立されていなかったので、九州から近畿への文物の伝来はありません。また、邪馬台国と狗奴国はライバル関係でした。
地政学的に考えても、投馬国に伝来していた鉄器や鉄の加工技術が、中国山地を超えて淡路島に伝わったと考えるのが道理に適います。
投馬国は、但馬の国だけでは鉄器の出土数は多いとは言えません。しかし、すぐ隣の丹後半島を含めると、二世紀の出土数が日本一多くなります。一方、近畿地方では三世紀の淡路島の鍛冶場跡から僅かに鉄器が出土しているに過ぎません。近畿・狗奴国にしてみれば、越前・邪馬台国からの鉄の流れが遮られた状態でしたので、投馬国からほんの僅かだけ入手できたという姿が浮かび上がってきます。近畿・狗奴国が確実に鉄器を持ち始めるのは四世紀を過ぎてからですので、越前・邪馬台国の鉄の壁は厚かったという事でしょう。
次回は、投馬国・但馬の伝説や古来からの地名などについて考察します。