邪馬台国から投馬国へ至るまでの地域を調査します。
越前を陸路で出発すると、まず若狭湾沿岸地域に到着します。この地は、古墳時代中期以降に、中国大陸の玄関口として表舞台に登場します。日本の中心が近畿地方となるに伴って、中国・朝鮮の文化の流入口となったからです。
では、それ以前の様子はどうだったのでしょうか?
今回は、魏志倭人伝に従って、邪馬台国の使者が魏へ向かう行路の最初の地域・若狭 に焦点を当てて、当時の状況を推察します。
これは、若狭湾沿岸地域の地図です。
越前から投馬国・但馬までの陸路は、この地域全域を突っ切るように、このようなルートを辿ったと推定されます。
現代の行政区分では、福井県と京都府から成り立っています。また、飛鳥時代の行政区分では、敦賀は越前、舞鶴・宮津は丹後で、それ以外の地域が若狭の国となっていました。
邪馬台国時代の弥生時代末期では、そのような明確な区分はありません。出土する品々や、文化の共通性から、ここでは敦賀から舞鶴・宮津地域までを若狭の国として扱います。
若狭は、風光明媚なリアス式海岸で、日本三景の一つ・天橋立などが有名で、観光客が多く訪れる地域です。その反面、『原発銀座』と呼ばれるほど、日本一多くの原子力発電所が立地しています。
古代に於いては、古墳時代中期以降、中国大陸との玄関口としての役割を果たしていた地域です。現代で例えるなら、横浜や神戸に相当する港町でした。
農業の視点から見ると、水田稲作が可能な平地は非常に狭く、古代に於いて大国になれる要素はありません。もちろん、多少の平地はありますが、弥生時代にはほとんどが海の底でした。しかも、河川による沖積平野なので、耕作地だったのは海に面したごく一部の地域だけだったと思われます。
弥生時代の生活状況は、食料は海産物が主体で、農作物は補助的なものでした。当然ながら、大きな集落が発達する事はなく、小さな漁村が点在する地域となっていました。
越前から投馬国へ向かう陸路は、海岸沿いの集落や、リアス式海岸の小さな峠を幾つも越えながら、西に向かったと思われます。
若狭の遺跡で特筆すべきものは、縄文時代と古墳時代の出土品です。
縄文時代においては、若狭町の鳥浜貝塚と舞鶴市の浦入遺跡が有名です。
どちらの遺跡からも、日本最古の丸木舟が出土しており、数千年前から沿岸漁業や、湾内での交流が盛んだったのでしょう。
また、鳥浜貝塚では日本最古の装飾用真珠が発見されています。高志の国の翡翠と並んで、若狭の国もまた、数千年前から宝石に対する意識が高かった事を窺わせます。
古墳時代には、高志の大王・継体天皇が近畿地方を侵略する拠点としていた事もあり、豪華な出土品が発見されています。十善の森古墳です。金の王冠や三千点以上の宝物が出土しています。峠一つ越えれば琵琶湖という好立地の為、継体天皇勢力がこの地を重要拠点として活用していたのでしょう。
なお、残念ながら弥生時代の遺跡で特筆すべきものはなく、日本全国どこにでもある弥生土器が出土している程度です。鉄の出土もほとんどありません。
理由としては、
・邪馬台国の物資運搬において、鉄の輸送は若狭湾を跨いで航海していたこと
・南部の近畿・狗奴国との対立があったので、鉄の流出を防いでいたこと
などが考えられます。
神話としては、敦賀の神功皇后が特に有名です。但し、これは奈良時代の遣渤海使の拠点だった事をモデルにしています。越前の伝説を神話化したものと考えられます。
このほかにも、
敦賀の ツヌガアラヒト伝説
宮津の 海部氏
小浜の 秦氏
など、渡来系の氏族や、海人族の伝説が多いのが特徴です。古来より、若狭湾が朝鮮半島との交流が盛んで、海洋交通の要衝だった事を物語っています。しかし、あくまでも神話ですので、信憑性に乏しいのが現実です。
若狭湾の「ワカサ」という言葉は、朝鮮語の「ワカソ」という言葉が由来であるという説があります。「ワカソ」とは往来を意味する言葉なので、渡来人たちから、朝鮮半島との海洋交通の要衝として認識されていたのかも知れません。
邪馬台国の魏へ向かう使者は、陸路でこの地域を通過しています。しかし、邪馬台国時代の遺跡には特徴的なものはありません。鉄器もほとんど出土されていない事実を見ると、邪馬台国のライバル・狗奴国(近畿地方)との緩衝地域・中立地域的な役割だったのかも知れません。
次回は、若狭に隣接する琵琶湖沿岸の近江の国の状況について調査します。