弥生時代末期の超大国・越前が邪馬台国だと比定した場合、投馬国は、但馬(兵庫県豊岡市)の周辺地域と比定されます。
魏志倭人伝の「投馬国から海行10日 陸行1月」にピッタリ一致する場所だからです。
今回からは、邪馬台国から投馬国へ向けて進むルートを辿って行きます。弥生時代の「陸路」は整備されていない獣道です。当時の状況を推測しながら、現実的な陸路移動の様子や、通過する国々、運搬した物資の内容などについて考察して行きます。
考古学や文献史学では、見えてこない弥生時代の様子を想像します。
これは、高志の国から出雲の国までの地図です。
当然ながら、弥生時代において明確な国境はなく、出土品の特徴などから文化的に共通する地域の区分けとなります。
また、越前などという行政地域名は、飛鳥時代から使われ始めたものですが、ここでは便宜上、使用します。
さて魏志倭人伝に従うと、越前から投馬国・但馬までは、「陸行一月」となっています。この理由については、以前の動画をご参照下さい。
まずは、弥生時代に陸路を一ヶ月も進む事が、いかに困難だったかを推測します。
弥生時代は街道が整備されておらず、長距離移動は船による海路でした。租庸調などの物資運搬の点からも、陸路を使う事はほぼ不可能でした。
しかし、邪馬台国から投馬国までは、重い物資を運ぶ必要がなく、それに海路だと対馬海流に逆行するので、陸路で行く方が理に適う事になります。
但し、弥生時代の陸路は、獣道です。現代では、一般的に使う事はありませんが、山菜取りなどで迷い込み、遭難してしまう事がありますので、非常に危険です。
弥生時代の道は獣道が当たり前で、一日中歩いて移動するには、かなりの困難が伴いました。
私の経験ですが、墳墓群の散策時に獣道に入り込んで迷子になりました。森の中に分け入ってわずか数分の事です。一旦入り込んでしまうと、360°すべて同じ森に見えて、いま歩いてきた道さえも分からなくなってしまいました。恐怖を感じて、すぐに引き返す事にしました。記憶を辿りながら、なんとか元の場所へ戻れましたが、その距離は、ほんの50mにも満たないものでした。
木々に覆われた森の中の獣道は、どの場所も同じに見えるだけでなく、太陽の光も遮られる陰鬱な空間です。
こんな道を、弥生人たちは毎日毎日、歩いていたんですね。
獣道を移動するのに、重い荷物を運ぶのは、不可能でしょう。
しかし、通貨の無い時代ですで、何らかの価値のあるものを持っていかなければ、食料や宿にありつく事は出来ません。もちろん、縄文人のように獣を狩猟したり、木の実を採取したりする方法もありますが、大人数で旅をする者たちの胃袋を満たす事はできないでしょう。
また、集落を襲って略奪行為を行えば、人心が離れてしまいますので、民衆を懐柔しながら移動したと思われます。
高志の国の場合、翡翠や瑪瑙などの宝玉造りが盛んに行われていました。これは、威信財としてだけでなく、お金の役割も果たしていました。重量もかさばらず、獣道を運べると同時に、行く先々で集落の民に分け与えて、食料と宿、および大国としての信頼を得ていたのでしょう。また、現地の獣道に精通した集落の民を、道案内役として雇うこともできました。
陸地を長距離移動するという事は、通貨の無かった弥生時代において、宝石産業が発達していた高志の国にしか出来なかった方法かも知れません。
では、具体的に越前から但馬までの具体的な陸路を推測します。
まず、越前・福井平野の南端から険しい峠を越えて敦賀に至ります。敦賀からはリアス式海岸の若狭湾沿岸を沿って西へ向かい、京都府舞鶴市まで進みます。現代では平地になっているこの地域は、弥生時代にはほとんど平地がなく、湿地帯のような場所だったようです。舞鶴市からは、由良川を遡って渓谷を縫うように但馬の国・兵庫県豊岡市に到着します。
現代では、道路や鉄道が走っていて何の問題もなく移動できるルートです。当時としても、このルートが最も簡単ですが、それでも、森の獣道を通っての峠越え、湿地帯の獣道、渓谷の沢登りなどなど、多くの障害がありました。距離としては、200キロ弱ですが、一月は掛かったと思われます。
このほかに弥生時代の陸路の長距離移動は、野生の動物たちとの格闘もあったでしょう。熊、猪、狼、猿など、危害を加える野生動物は、現代の比ではありませんでした。
それでも、船で海流に逆らって沖乗り航法をするよりは、まだ合理的だったのでしょう。以前の動画で検証した「大型準構造船」の性能は、潮流まかせの船だからです。
次回からは、邪馬台国・越前から、投馬国・但馬へ至るルートの内、最初に通過する若狭・北近江地域の弥生時代の様子を調査します。