投馬国・但馬には、天日槍(アメノヒボコ)という伝説があります。これは、古事記や日本書紀などに記されている神話で、朝鮮系渡来人の一族が但馬の国に移り住んできた事が元になっていると考えられています。
天日槍は、三韓征伐の神功皇后の先祖とされており、邪馬台国の都怒我阿羅斯等(ツヌガアラヒト)と同一人物という記載も、日本書紀にされています。
伝説や神話は根拠が希薄ですが、日本海沿岸に流れ着いた渡来人達の勢力があったという参考資料として、考察してみる価値はありそうです。
今回は、天日槍や但馬に残る地名などを、簡潔にまとめました。
日本書紀によると、第11代・垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代の話です。アメノヒボコは播磨の国に停泊していて、新羅の王子だと名乗っていたそうです。
天皇への貢ぎ物として、玉類や刀剣類を献上すると、播磨と淡路島での滞在を許されました。
しかしアメノヒボコは、諸国を遍歴して適地を探す事を希望します。播磨から近江へ、さらに若狭へ移動したのちに、但馬の国で定住したのだそうです。
これは客観的に見て、但馬の国の伝説を神話化したのでしょう。
但馬に流れ着いた新羅系渡来人たちが、播磨の国へ追いやられ、再び戻って来た話ではないでしょうか?
朝鮮半島の新羅から、いきなり播磨の国へは来れません。瀬戸内海航路が開けていない時代ですので、対馬海流に乗って但馬の国に流れ着いたのでしょう。
そして、「鉄の道」と呼ばれる但馬から淡路島のルートを通って、近畿地方に鉄器をもたらした渡来人たちの話を、日本書紀の中で神話化したと思われます。
またアメノヒボコは、『日本書紀』の垂仁天皇2年条の注において都怒我阿羅斯等(ツヌガアラヒト)の伝承として記述されています。ツヌガアラヒトは、高志の国・敦賀の神話です。
額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で笥飯浦に来着したという渡来人で、「つるが」という地名の元になった人物です。
一方、三韓征伐で有名な神功皇后の先祖ともされています。神功皇后は、角鹿笥飯宮を拠点としていた女傑で、卑弥呼や卑弥呼の宗女・壱与がモデルと言われています。
根拠の希薄な伝説や神話とは言え、但馬の国のアメノヒボコと、越前の国のツヌガアラヒトや
神功皇后と深いつながりが垣間見えます。
但馬の国は投馬国、越前の国は邪馬台国だったと考えれば、非常に明確な筋道が立つ神話です。
アメノヒボコは、但馬の国の出石(いづし)に拠点を置いたとされています。現在の兵庫県豊岡市出石です。ここは、邪馬台国時代の船団線刻画が発見された袴狭遺跡のある場所で、飛鳥時代には、国府が置かれていたとされる場所です。
この地の一宮(いちのみや)にある出石神社には、日本書紀の神話にちなんでアメノヒボコが祭られています。
またこの地の総社として気多神社があります。これは、但馬と高志の国との関係を示す神社です。能登国一宮の気多大社や、越中国一宮の気多神社と名称が同じ事から、古代に於いては深いつながりがあったものと考えられます。
但馬には「気比」という地名があり、弥生時代の銅鐸が多数出土しています。
天日槍、都怒我阿羅斯等、神功皇后、気多神社、さらには敦賀・気比神宮との関係を匂わす「気比」という地名。根拠が希薄な伝説や地名ではありますが、弥生時代に但馬と越前が結ばれていたと想像される資料ではあります。
これらのように、邪馬台国を越前と比定した場合、投馬国を但馬(丹後・丹波を含む)と比定できるのではないでしょうか。
次回は、投馬国(但馬・丹後・丹波)に伝わる伝承の数々を紹介します。