大国主命が恐れた超大国

 投馬国(丹後・丹波・但馬)は、多くの弥生遺跡や墳墓、伝説や神話が残っています。ところが皇族との関係では、「天日槍(アメノヒボコ)が神功皇后の先祖」というくらいで、記紀に登場する事はほとんどありません。また、大国主命神話にも登場しません。これは、若狭湾を挟んだ東隣の越前地方も、同じ事が言えます。西隣の出雲地方から現れた大国主命は、主役級の扱いですが、それとは雲泥の差です。記紀編纂において、投馬国が邪馬台国と同様に、歴史から抹殺されたのかも知れません。

 今回は、投馬国(丹後・丹波・但馬)の大国主命との関わりを追って、投馬国と邪馬台国、そして出雲との関係性を考察します。

恐投馬10
大国主命の活動地域

 記紀に記されている投馬国の神話では、但馬の国の天日槍(アメノヒボコ)伝説があり、以前の動画で紹介ました。また、丹後の国の天橋立には、イザナギ・イザナミ伝説があります。ところが、大国主命の国づくり神話においては、投馬国に関する記述がありません。出雲の国のすぐ近くにありながら、但馬の国や丹後の国を支配する記述が無いのです。もちろん、この地に古くからある神社には、大国主命が訪れたとする伝承がありますが、根拠が希薄ですので、後付けされたものと考えられています。

恐投馬20
大国主命の移動経路

 大国主命の国づくりは、記紀の中の神話ではありますが、近畿周辺の広い地域を平定したように思われています。ところが、冷静に調べて行くと、強大な勢力がある地域には、全く手を出していないのです。

 大国主命は出雲を出発し、伯耆国と因幡国を統一した後、高志の国・能登という辺境の地へ飛んでしまっているのです。

 弥生時代という日本海側が日本の表玄関だった時代には、出雲・丹後・越前が先進地域でした。

 出雲から大国主命が出現したのは理解できますが、丹後・越前という超大国に対して、大国主命は全く関わっていないのです。

恐投馬30
現代の例え

 これを現代に例えてみます。埼玉県と東京都と神奈川県が争いを起こしたとします。埼玉県の勢力を大国主命の出雲勢力としましょう。

 大国主命は、東京・神奈川の中心部を避けて人口の少ない山間部を攻撃しました。そして、東京では奥多摩地方を、神奈川県では丹沢山地を制圧しました。埼玉県は高らかに宣言します。『東京都と神奈川県を征服した』と。

 大国主命の神話は、まさにこれです。超大国の中心地には全く手を出していないのです。

これは何を意味するのでしょうか。

恐投馬40
投馬国と邪馬台国を避けた理由

 可能性として、次の四点が考えられます。

 ・出雲の力では、丹後や越前を制圧出来なかった

 ・記紀編纂時の藤原氏によって邪馬台国や投馬国を無視した

 ・越前に出自を持つ継体天皇に対して忖度した

 ・大国主命のモデルが継体天皇だった

恐投馬41
出雲の力不足

 まず、単純に出雲勢力に力が無かっただけかもしれません。記紀に書かれている「ヤマタノオロチ伝説」では、出雲は高志の植民地とされています。また、出雲の国の風土記では、高志の勢力によって出雲が開拓された事が書かれています。

恐投馬42
藤原氏の陰謀?

 次に、藤原氏による邪馬台国の無視です。これは、以前の動画で考察しました。蘇我氏の母体である越前・邪馬台国の歴史を抹殺した可能性です。投馬国についても、蘇我氏が支配していたとすれば、同じような扱いを受けた可能性があります。

恐投馬43
継体天皇への忖度

 次に、継体天皇に対する忖度です。越前に出自を持つ継体天皇の故郷が、出雲の国という格下の国に支配されていた、とすれば、天皇家に対して非常に失礼です。継体天皇が、越前だけでなく、丹後・但馬も勢力範囲に入れていたとすれば、これらの地を聖域にした可能性があります。

恐投馬44
大国主命のモデルは、継体天皇か?

 最後に、大国主命が継体天皇をモデルにしていた可能性です。継体天皇が即位する以前の近畿地方は、巨大古墳の造成で疲弊し、周辺諸国から孤立していました。それらの周辺諸国を纏め上げて、近畿地方を征服したという可能性です。実際、継体天皇は、越前の出自でありながら、投馬国だけでなく、東海地方や九州・朝鮮とも繋がりがありました。それらの勢力を結集して、近畿討伐に向かい、王朝交替を実現したのかも知れません。そうであれば、越前や丹後は大国主命の地元ですので、記紀に登場する必要は無くなります。

 なお、この可能性についても、以前の動画で考察していますので、ご参照下さい。

 日本書紀には、越前の男大迹王(継体天皇)を次期天皇に招聘する前に、丹波の倭彦王(やまとひこのおおきみ)を擁立しようとしたとされています。倭彦王は、第14代仲哀天皇(皇后は神功皇后)の五世孫とされる人物です。もちろん、継体天皇が王朝交替したとすれば、創作にすぎませんが、投馬国・丹波には、皇位をねらえるような有力者が存在していたことを示唆しています。また、越前の継体天皇との友好関係があればこそ、丹波の大王が引用された可能性もあります。

 弥生時代末期の邪馬台国(越前)と投馬国(丹後・丹波・但馬)との関係は、古墳時代になっても深い結びつきがあったようです。

 次回は、投馬国に関する全体的な総括に入って行きます。